マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子論(転載)
80年代女性アイドル格付シリーズは英時一がはてな匿名ダイアリーで連載したものです。今回、ブログ開設に伴ってこちらにも転載することにしました。
80年代女性アイドル格付
http://anond.hatelabo.jp/20130821065806
を書いたマスダです。80年代女性アイドルについて語り倒したくなったので、順繰りにそれぞれの女性アイドルについて話してみたいと思います。
今日は松田聖子について。
松田聖子のデビュー曲は「裸足の季節」、そのB面曲は「RAIMBOW~六月生まれ」と言う楽曲です。
どういう事情でこのB面曲が選ばれたのか、ちょっとした謎ですね。デビューシングルと言えば、売出し中のアイドルにとっては名刺みたいなもんじゃないですか。そのB面曲が「六月生まれ」だったら、普通は、ああ、この子は六月生まれなんだなあって思いますからね。でも実際には聖子は3月10日生まれ、早生まれなんですね。この早生まれ、ということを初期の聖子は最大限に活用しています。
三作目のシングル「風は秋色」はB面曲(扱いは両A面扱いですが)が「EIGHTEEN」で、聖子の初期の代表曲の一つです。
あーここでついでに言っておきますが、聖子のシングルのB面はA面よりもむしろ優れた楽曲が多くて、ファンから強く支持されているのもB面曲が多いですね。何といっても「SWEET MEMORIES」が「ガラスの林檎」のB面曲なんですから。主演映画の主題歌だった「花一色」や「夏服のイヴ」がB面だなんて、他の歌手では絶対にありえないですよね。
で、「EIGHTEEN」を歌っている時、彼女は実際に18歳だったのですが、早生まれなので学年で言えば、「19歳」なんですよね。山口百恵は19歳の時には「プレイバックPart2」を歌っていました。そして21歳の時に引退しました。山口百恵が脱アイドル路線を進み、既にその前年に嫁に行く娘の母への気持ちを「秋桜」で歌っていたことを踏まえれば、普通はもうアイドル路線から転換するような年齢で、聖子はアイドルを開始したということになります。
既に高校を卒業して、社会人としてアイドルデビューをした松田聖子でしたが、「高校三年生の年齢である18歳」を強調することで、ファン層である中高生との乖離を極力狭めようとした、「EIGHTEEN」という楽曲にはそういう意図が感じられます。
聖子は高校1年生の時にミスセブンティーンコンテストで歌唱力を認められ、CBSソニーが直ぐにでもデビューさせたいとアプローチをかけます。彼女はサンミュージック所属でしたが、レコード会社が発掘したアイドルなんです。CBSソニーとサンミュージックが綱引きをしたら、聖子はあくまでソニーのタレントです。このことがアメリカ進出の際、亀裂となって生じるのですが、それはまた別の話です。
聖子のデビューが遅れたのは、父親を説得するのに2年を費やしたからです。14歳でデビューした山口百恵らはさすがにデビューが早い方ですが、アイドルは普通は16歳前後でデビューします。田原俊彦は19歳でのデビューでしたが(学年で言えば実際には20歳でのデビュー)しばらく年齢を詐称していたように、18歳以降でのデビューはアイドルとしては年齢が立ちすぎていて、著しく不利です。
いいよいいよで済ます家庭で育っていれば、聖子のデビューは石野真子と同期、1978年になっていたはずです。2年デビューが遅れたのは後から見れば実にラッキーだったのですが、おそらくその2年間は聖子の人生の中で一番悶々としていた時期だろうと思います。
娘が芸能界でデビューしたいと聞いて、まずまともな父親なら反対が先に来ると思います。決して内実は美しい世界ではありません。暴力団などに食い物にされている人もいます。横目で見ていて、そんなことに娘が関わって欲しくないとまともな父親ならばそう思うのではないでしょうか。娘が芸能界に入りたいと言って、これで一儲けが出来ると思うなら、いいよいいよと父親は言うでしょう。問題は果たしてそう言う父親がまともな父親かどうかです。
芸能界に入る時に父親に反対されたというアイドルほど、荒波を乗り越えてタフなように見えます。それは最後の砦である家族を信じられるからです。家族を信じられるのは家族がまともだからです。松田聖子にはこの、「父に愛された娘」としてのタフネスがあります。それは中森明菜が結局手に入れられないものでした。
デビューが遅れて良かったのはまず第一に黄金期にあった山口百恵、キャンディーズ、ピンクレディーらと競合せずに済んだことがあげられます。本来、ポスト百恵の世代は、石野真子、榊原郁恵、大場久美子らが担う位置にありましたが、彼女らは既に聖子がデビューした時には息切れしていました。78年にデビューしていれば聖子もそうなった可能性があります。聖子と百恵の活動時期は殆どかぶっていなくて、百恵の引退直前に聖子が挨拶に行った、くらいの関わりです。百恵が不在になって、いなくなったのは百恵だけではなく、めぼしい女性アイドルたちもそうでした。80年組が豊作の年と言われるのは、女性アイドルたちが不在で、80年組がまたたくまにその空間を埋めたからです。
80年組が活発な活動を続けていた81年には、逆に女性アイドルが出てくる余地が無くて、81年組は近藤真彦、竹本孝之、沖田浩之などの男性アイドルは輩出されましたが、女性アイドルには本当にめぼしい人がいません。伊藤つかさだけですね。
70年代は60年代の延長ですが、80年代は新しいステージに入りました。戦争を知らない子供たちどころか石油危機を知らない子供たちが青年期を迎え、先進国の日本しか知らない若者が世相をリードするようになりました。
70年代末期には、海外ご当地ものの楽曲が数多く出ました。「とんでイスタンブール」とか「サンタモニカの風」とかですね。海外ご当地ものは聖子も数多く歌っていますが、日本の若者は行こうと思えば気軽にそこへ行けるようになっていたのが70年代と異なっています。ハワイやグアムではもはや歌の舞台には陳腐になっていて、聖子の海外ご当地ものはより遠くへ、穴場へ行く傾向にありました。グアムではなくセイシェル、ロスではなくマイアミ、カリフォルニアのディズニーランドではなくニューヨークのコニーアイランド。
聖子の歌には、特に初期には憂いのようなものはなく、ふわふわとしたポップな高揚感がありましたが、80年代はそれをファンタジーではなく、普通のことにする時代でした。あの時代の日本人はすべて、準超大国であった日本という国家を背負っていたのです。
聖子はその象徴になりましたが、それは78年にデビューしていればたぶん不可能なことでした。
「裸足の季節」がスマッシュヒット、「青い珊瑚礁」が大ヒット、続く「風は秋色」という地味な曲が80万枚を売り上げたことから(今の感覚ではたぶん倍の枚数で考えればちょうどいいんじゃないかと思います。だから160万枚)、聖子なら何でも売れることがはっきりとしました。
続く「チェリーブラッサム」は最初のターニングポイントになった楽曲です。続いて「夏の扉」「白いパラソル」と財津和夫が作曲を手掛けますが、財津和夫の流れからJ-POP原理主義とも言うべき、「はっぴいえんど」人脈とのつながりが出来て、松田聖子の楽曲はアイドルの枠を超えて、日本のミュージックシーンでもにわかに実験的な色彩を強めていきます。アルバム「風立ちぬ」はこの時代、もっともアグレッシヴなアルバムであり、日本音楽史上、聖子の楽曲は単に売れている、という以上の意味を越えて特筆すべきものになりました。売れているから何でもできたのです。
「チェリーブラッサム」は初期シングルの中では最高傑作との評価も高い楽曲で、人気も高いのですが、歌うのはかなり難易度が高い曲です。聖子はその後も「いちご畑でつかまえて」のようなあり得ないような難しい楽曲をわりふられて、楽々と歌っているばかりか、生放送で披露して作品世界観までしっかりと表現しているのですが、まず普通の歌手には真似できないことです。第一に何でも売れる、第二に何でも楽々と歌える、という二つの条件が揃ったことにより、一種の「聖子解放区」なるものが出現し、日本のトップアーティストたちがこれでもかと腕を振るって練りに練った楽曲を提供し、ソングライターにとっての桃源郷が聖子という媒体を通して出現します。
その契機をつくったのが財津和夫であり、「チェリーブラッサム」でした。聖子自身は当初、この楽曲に拒否反応を示し「こんなのを歌っていては駄目だわ、と思った」と述べているのですが、それはアイドル歌謡の枠からあまりにも外れていたからでしょう。
聖子はなりたくてアイドルになっただけに、アイドル的なるものが好きでした。聖子は80年代初めに、ふわりとした髪型(いわゆる聖子ちゃんカット)、ロココ趣味のドレスという天地真理スタイルを復活させた人ですが、当時は既に山口百恵後期のスタイリッシュな大人の女性路線を経ていたために、下手したら冗談と受けとられる可能性がありました。そんな恰好をするのはもはや聖子だけだったのです。その後、聖子がブレイクした結果、猫も杓子もエピゴーネンになりましたが、その時にはもう聖子はそうしたスタイルをやめていました。
そして「赤いスイートピー」で作詞・松本隆、作曲・呉田軽穂(松任谷由実)のコンビが実現するのですが…。
松本隆は80年代を代表する作詞家で、トップアイドルたちのほとんどに詞を提供しています。上位から8位までのアイドルたちで言えば、中森明菜に「愛撫」「Norma Jean」、小泉今日子に「魔女」「水のルージュ」、薬師丸ひろ子に「Woman~"Wの悲劇"より」、中山美穂に「派手!!!」「JINGI~愛してもらいます」、斉藤由貴に「情熱」を提供しています。
特に中山美穂については初期にプロデュースも手掛けています。
しかし松田聖子のプロデューサーとしての活動が著名で、松本隆と言えば松田聖子、松田聖子と言えば松本隆といってもいいでしょう。「秘密の花園」は元は別の人が作曲していたのですが、松本隆が気に入らなかったので急遽、作曲者を松任谷由実に替えています。松田聖子プロジェクトにおいてはそういう権限を持っていた人です。
松任谷由実のアーティストとしての全盛期を、荒井由実時代に求める人は多いのですが、私は松任谷由実になってから7年間、アルバムで言えば「紅雀」から「DA・DI・DA」までがソングライターとしての全盛期だと思います。セールス的にはその数年後に絶頂が来るのですが、セールス的な絶頂が来た頃にはソングライターとしては下降期に入っています。そのソングライターとしての全盛期がまさしく彼女が松田聖子プロジェクトに関与した時期で、さすがにどの曲も珠玉の傑作ばかりです。
「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」「Rock'n Rouge」「秘密の花園」「瞳はダイアモンド」「時間の国のアリス」が松任谷由実が松田聖子に提供したシングルA面曲になります。B面曲/アルバム曲では「制服」「レモネードの夏」「蒼いフォトグラフ」「恋人がサンタクロース」などが有名なところでしょうか。彼女はソングライターとして全盛期だった松任谷由実の楽曲を歌うことで、松任谷由実のエピゴーネンになる危険を冒しました。ユーミンサウンドのチャンネルのひとつ、になってしまう可能性があったのですが、そうはならなかったのは、第一に二三の例外を除き、松任谷由実がセルフカバーしていないから、そして、松田聖子が独自の歌唱で、世界観をくっきりと提示したからでしょうか。
これは彼女の楽曲をカバーしたアーティストの歌を聴き比べればはっきりとします。カバーアーティストたちはプロですからそれぞれに上手いのですが、聴き比べればやはり聖子の歌唱が圧倒的に優れているのが分かります。これは単にオリジナルシンガーというだけでなく、楽曲の世界観を提示する能力が卓越しているからです。
彼女は洋楽の日本語版をカバーして歌っていることも多いのですが、それらはオリジナルよりもよほど強い輪郭を持っています。
松田聖子は演技は致命的に下手ですが、歌の中にドラマを作り上げる技量は他の追随を許しません。いわゆる歌が上手いと言われる人、例えば美空ひばりは、彼女自身が器楽として優れているのであって、実はその歌は、世界観を味わうというよりは、音楽としての歌を楽しむ、実はより純粋音楽の方向に寄り添っています。松田聖子は歌を映像として見せる技量に秀でているのであって、その圧倒さは唯一無二のものです(対照的に中森明菜は器楽寄りの歌手です)。
「はっぴいえんど」人脈によって松田聖子というアイドルの楽曲の風景は歴史的なものになったのですが、松田聖子自身は本来はそちらの性向ではなかったのでしょう。「花一色」は文芸映画「野菊の墓」の主題歌で、やはり数多くの文芸映画に主演した山口百恵の中期の路線を思わせる楽曲でしたが、しっとりと日本の情感を歌い上げています。彼女自身はそういう、「大人」の路線にシフトして行きたかったはずですが、松田聖子プロジェクトが圧倒的な成功を収めたために彼女自身、その成功に圧倒されていきます。
「チェリーブラッサムを歌いたくなかった」
という言葉は実は、「案外、自分のことはわからないものだ」という自己反省の文脈で語られています。自分よりも周囲の方が案外分かっているのではないか、チェリーブラッサムはそういう教訓を彼女に与え、彼女自身、松田聖子を自己模倣していきます。
アイドル時代のキャリアの後半になるにつれ、子供っぽい、可愛い歌の傾向に拍車がかかるのは、その表れでしょう。「時間の国のアリス」「天使のウィンク」「ボーイの季節」は過剰な少女趣味が行き過ぎていて悪趣味ですらあります。
ほとんど自らの巣に絡まる蜘蛛のような、自虐的とも言えるまでに肥大化してゆくアイドルとしての松田聖子の路線に、松田聖子は結婚休業をすることでけりをつけるのです。