奇跡の少女漫画家、いくえみ綾の30年

いくえみ綾は主に集英社で仕事をしている漫画家ですが、彼女がかつて受賞した大きな賞ふたつは他社の漫画賞ですね。

2000年『バラ色の明日』で小学館漫画賞(少女漫画部門)を受賞、2009年に『潔く柔く』で講談社漫画賞(少女漫画部門)を受賞しています。業界全体がいくえみ綾を無視できない、少女漫画業界全体のレガシーになっているということですね。

 

いくえみ綾のデビューは1979年、主に短編、読み切りの作品を手がけ、最初にコミックスという形でまとまった形になったのがマーガレットコミックス『初恋の向こう側』(1981年11月)です。

絵柄、デッサンが初期の頃から大幅に変わっている漫画家は多いのですが、多くの場合それは複数の人がアシスタントと言う形で人物デッサンにも関与するために生じる「産業化による変化」であって、オリジナルの絵の中にある尖った部分が丸くなるという形に落ち着いていきます。

いくえみ綾の場合はそれとは逆で、1980年代初頭少女漫画の典型的な、様式的な描線を捨てて、写実的な表現に向かったうえで、それを自分なりに再咀嚼して独自のデフォルメを加えると言う、作画上の自己革新を1990年代中頃に成しています。

「こなれていく」「産業化していく」という意味ではなく、作画の基礎の部分からまったく切り替えてた現役のプロの漫画家は他に類例がありません。

現在のいくえみ綾の作画力は定評がありますが、それ以前の作画についても下手だったわけではありません。1980年代的には主流の描線だったと言っていいでしょう。しかしそれだけに、時代性と密着していて、あの絵柄のままであれば、1990年代以降も現役の作家として活動するのは難しかったかも知れません。

いくえみ綾は特に初期は短編作家としての性格が強かったので、代表作を選びにくいのですが、比較的、長い『POPS』や『彼の手も声も』よりも抜きんでて物語の出来がいいのは『エンゲージ』です。いくえみ綾の作品では、現在連載中の『プリンシパル』でもそうなんですが、恋愛当事者である男女だけでなく、友人関係や恋人をめぐる政治的な思惑が描かれていることが多くて、女子的にはリアルなんでしょうが、読んでいて辛い、そもそも話の本筋からずれてネガティヴな側面ばかりに焦点があてられていることがあります。

『エンゲージ』の場合は、主人公が好きなのは「お隣のお兄さん」であって、年齢差もあり、学校と言う共同体をシェアしている存在ではないので、この男性を好きになると親友の誰それが傷つく(親友もその男性を好きだから)、じゃあ身を引こうとかそういう本筋から離れたごたごたの可能性が最初から排除されているのが物語としてすっきりとしていいですね。

『エンゲージ』の素晴らしさは是非読んでみてください、と言いたいところですが今は絶版になっているようなので、かいつまんで内容を説明します。

主人公A子は高校三年生、おとなりの兄弟、B男とC男は幼馴染になります。B男はもう社会人で、A子はB男が好きなんですが、B男から見ればA子は妹みたいな存在でしかない。その関係がA子とC男では逆にスライドされていて、中三のC男はA子が好きなんだけれども、A子にしてみればC男は弟みたいな存在でしかない。B男はD子という別の女性と婚約するが、それはもちろんA子を絶望に落とす。落とすのだけれどももうどうしようもなく、なんとかこの現実を受け入れようとする中、D子が事故死する。その死は誰にとってもショックではあるのだが、A子にはやはり、ならばこの際、B男はA子に目を向けてくれてもいいのではないかとの思いが生じるのをどうすることも出来ない。純粋に婚約者の死を悲しんでいるB男にとっては、もはや「妹」としてでも自分の痛みをシェアすることが出来ないA子を見て、余裕のない態度をとり、幼馴染でそれぞれに恋愛感情があるというA子、B男、C男の関係は破綻する。A子は故郷の町を進学を機に離れることによって、少女時代のこの関係を清算するのだった。

と言うような、あらためて筋だけを抜きだせば、いかにもいくえみ綾らしいわりあいどろどろとしたお話ですが、紡木たくっぽい、記号的な絵柄で描くとどろどろさが希釈されて提出される印象があります。

紡木たくは漫画家としてはいくえみ綾としては同世代で、デビュー、活躍時期、活動雑誌も同じ作家で、『ホットロード』や『瞬きもせず』は700万部は売ったと言われる大ヒット作品になりました。あれだけの大ヒット作品が今では絶版になっていることにも驚かされますが、80年代少女漫画という大きな枠にあって、いくえみと紡木にまず絵柄という点で共通点があったのは確かです。

仮にいくえみが現在の絵柄で『エンゲージ』を描き直すとすれば、生々しすぎる描写になってしまい、当時のコードからは外れてしまうことになったのではないでしょうか。それはやはりまだ、かずかずの武装を自意識にまとわなければならなかった80年代少女にとっては、手を出すべきではない真実になっていたのではないでしょうか。

逆に言えば、90年代半ばに作画上の自己革命を成し遂げたいくえみは、それまでは描けなかったテーマにも手を出せるようになりました。それによって、同世代の作家である紡木たくらが実質的には引退してゆく21世紀になってから、いくえみの作家としてのピークが訪れることになる、直接の原因になりました。

 

潔く柔く』は単に、いくえみ綾の長年のキャリアにおいても最高傑作というだけではない、少女漫画史全体を通してもひとつの金字塔に相当する作品ですが、そのような作品になったのはあくまで結果でしょう。最初から細部まで構想があったのがどうかは疑問です。

いくえみは基本的に短編作家です。短編と長編では長さが違うと言うだけではない、描き方や焦点の当て方が違ってきます。『潔く柔く』は敢えて言うならば連作短編、という形になりますが、本来はキャラクターたちが密接に関係しあい、最終回に向けて絡み合うような構想ではなかったと思われます。

Aという主人公を描いた物語で、脇役のBを主人公に据えて別の物語を描くと言うような、キャラクター同士には薄い関係性しか想定されていなかったと思われます。

源氏物語の読み方で、紫の上系と玉鬘系に分けるやり方があります。玉鬘系は言わばサブエピソードでこれを全部取り除いても物語の本筋(紫の上系)には影響がない、紫の上系は単体で物語として成立し得る、そういう分類の仕方があるんですね。

その分け方で言うならば、『潔く柔く』の本筋は瀬戸カンナの物語、瀬戸カンナ系のキャラクターたちであって、瀬戸カンナがいわば紫の上に相当します。

玉鬘に相当するのが梶間洋希です。物語の主筋、大団円に向かう話の流れを瀬戸カンナ系が担っているのだとしたら、梶間洋希系は無くても「瀬戸カンナ系の物語」は成立します。

http://www.youtube.com/watch?v=HSiE7oytd4U

 2013年10月26日から東宝系で映画『潔く柔く』が公開されますが、これはもちろん「瀬戸カンナ」の物語であって、漫画潔く柔く』では瀬戸カンナと並ぶ物語の主要キャラクターである梶間洋希は登場もしません。接点がないからです。

漫画潔く柔く』はそもそもの第一話が、教師である梶間洋希に恋心を抱く生徒・森由麻の話であって、最初の主人王であるにもかかわらず、森由麻は以後、登場しません。当初の構想が、より読み切りに近いものであったからでしょう。

「瀬戸カンナ」の物語はそれが物語全体の主軸になったのはあくまで結果論であって、瀬戸カンナの物語が当初の構想を乗っ取ってしまった、そういうことなんだろうと思います。

ともかく、私は漫画は好きで、ジャンルに関わりなくありとあらゆる漫画を読んでいますが、10年代の少女漫画では、第一に『潔く柔く』、第二に吉田秋生の『海街diary』が傑出している、歴史の残る作品だと思います。

それにしても、いくえみ綾にしても吉田秋生にしても既に「大家」のレベルになっていながら、それ以前の彼女らの代表作を上回る、キャリア上の最重要作品を近年になって作り上げているのは感嘆すると言うか、化け物なんじゃないかとも感じます。

 

いくえみ綾が凄いのは絵柄を変えてきた点については既に指摘しましたが、現役の、女子高生の恋愛話をまだ描けるというところもそうですね。年齢で言えばそろそろ50歳近く、お子さんがいるのかどうかは知りませんがお孫さんがいらっしゃっても不思議はないお年ですよね。

そう言う実年齢になって、若い子の惚れたはれたの話を書くというのは結構難しいものです。時代も違えば意識も違う、小道具も違ってきます。恋愛感情それ自体は普遍的なものかも知れませんが、その表れ方は時代によって違ってきます。

年金はどうなるのかしら、節約術の本とか読んでみようかしらというようなことが最大の関心事になっている年代にとって、若い時の惚れたはれたの話はあまりにも遠い話です。

だから恋愛を書くにしてもキャラクターの年齢層を上げる、あるいは歴史物とか異次元物に舞台を設定して、徹頭徹尾、フィクションとして描く、だんだんとそうせざるを得なくなっていくんですね。

大御所が歴史物に手を出しがちなのは、今の若い人のリアルを描けなくなってくるからです。

いくえみ綾は取材もしているのでしょうけれど、いつまでも同じポジションにとどまっていられるのはすごいですね。