笑いといじめ、いじりの話

先日、NHK朝の情報番組「あさイチ」で、有働アナに対する年齢いじりなどについて、司会の井ノ原快彦さんが、

「この番組でも思うことはありますよ。縁結びの神様のテーマがあったら、(スタッフは)必ず有働さんに持っていく。有働さんは『ラッキー!』って感じだけど、その全てが有働さんに対していいってわけじゃない。それで笑い取れると思ったら大間違いだぞって思う」

「この人が強いから言っていいとかじゃなくて、相手がどう思うかを常に考えないと。そのつもりがなくても、加害者になっちゃう」

とたしなめたことについて、称賛の声が上がっておりますね。

有働アナは感動して泣いていたらしいですが、実は私も末っ子気質でいじられがちなので、この放送は見てはいませんが、後でネットでの文章を読んで泣きました。

女性は特にきわどい「ジョーク」を投げつけられることも多いのでしょうね。でもこれは男女に関係なくあるのも確かです。私は自分をネタに使われることについては、処世で笑っておりますが、そうやって処世ばかり上手くなってゆくことにも自己嫌悪がつのったりして、自分は決してそういうことをして「場をほぐす」ことはするまいと心がけています。

井ノ原さんは日経エンタテインメントにコラムを連載されるなどをなされていて、そのコラムや著作を拝読したこともあって、非常に知的で芯の通った方だなと前々から思っていて、そう思う方が他にもいらっしゃったから「あさイチ」キャスターに起用されたのでしょう。

ただ、この件で私がまず思い出したのは、確か2008年のことだったと記憶していますが、V6コンサートでの三宅健さんの勇気ある発言のことです。

三宅健さんはグループの中では年少で、他のメンバーにすれば弟みたいでかわいいんでしょうね、いじられ役になることが多くて、それはそれでお約束みたいになっていたんですが、2008年のコンサートで、三宅さんは突如として進行を止めさせて、いじりみたいなものでも自分が傷ついていること、ファンの方からの手紙で、その方もいじられていて傷ついているので三宅さんがいじられているのを見るのがつらいと書かれてあって、芸としては受け流すべきではあるんだけど、黙っていてはいけないと思ったことをメンバーや会場の人たちに語りかけました。

それで一緒になって笑うのも加害者になってしまうことなんだと、言っておられて、メンバーの方も謝罪なさったのですが、「あさイチ」での今度のことも、井ノ原さんには三宅さんによって気づかされたこの件のことが念頭にあったのだと思います。

三宅さんの行動には賛否あるでしょう。お金を払って楽しみに来たのになんで説教されないといけないんだとある意味当然の批判もあります。実際には賛否どころではない、批判の声の方が当時は多かったですね。空気読めないとかなんとか。

あさイチ」の件で井ノ原さんが非常に頭がいい人だなと思うのは、これをジェンダー問題としてある意味すり替えたことです。実際、男女間で、こうした心無い笑いが振られることも確かに多いのですし、ジェンダー問題として提示すれば、視聴者の大半は女性なのですから「あるある」と感じて、井ノ原さん男前!ということになるのですから。

私はそれがいけないとは思いません。自分の主張をより流通しやすい形に加工するのは、大人の戦術としては当たり前のことだからです。

けれどもこういう問題は男性から女性に対してのみあるわけではなくて、男性同士、女性同士、女性から男性に対してもあります。共通点があるとすれば、集団の中で比較的立場が弱い人、孤立している人をターゲットにするということです。

バーニングプロの周防社長をいじる人はいません。

山口組の司忍組長をいじる人はいません。

フォーマット、すなわちお約束にのっとって言えば、三宅さんはいじられて笑いをとるべきだったのでしょう。そうすればみんな、今日のコンサートも楽しかったね、と笑いあいながら帰れます。その和気藹々を壊すのはかなりの決断が必要です。

三宅さんの行為はプロとしてはあるまじき、なのかも知れません。けれどもプロである以前に、人間としての素朴な正義を三宅さんは優先して、バッシングされることを承知でそう言ったのです。だから私は三宅健さんを、勇気ある人だと思いますし、はるかに年少の方ではありますが尊敬しています。そしてその言葉に真っ直ぐに向き合って、きちんと考えて今回こういう答えを出してくれた井ノ原さんも。

とは言え、芸人にとっては無視されるよりもいじられる方がはるかに「おいしい」のも確かです。

特に彼らにとってはそれが収入に直結するのですから。

このいじり笑いについて私が思い浮かべるのは、元モーニング娘。飯田圭織さんです。当初、飯田さんは長身の美少女でしたが、グループ内では目立つ存在ではありませんでした。

彼女が一般に認知されるようになったのは「うたばん」の中で石橋貴明さんが野球選手のデーヴ・ジョンソンに似ているということでジョンソンといじられるようになってからのことです。

飯田さんは当初、「いじられているのを見て、ママも心が痛いと言っていました」と不服を言っていたのですが、人気が出てくるにつれて、「おいしい」という感覚になっていったようです。

不思議なもので、私は石橋貴明さんには別に不快を感じない、好みの問題だろうと言われればそれまでですが、そうやって相手をもりたててやろうという優しさを感じるのです。

一方で吉本系の芸人たちのいじりは、刹那的な笑いのために相手を利用してやろうと言う意図が透けて見えるようで、後味の悪さが残ることが多いですね。

今でもとても理解できないのは、十年くらい前に放送されていた旅番組で、ダウンタウンの浜田さんが若手芸人さんとオーストラリアを旅していて、何かご不満なことがあったのか本気でその芸人さんを蹴っていたことです。その芸人さんも切れそうになるのですが、権力を握っている方が相手ですのでぐっとこらえる、というのが流されていて、あれはどういう意図で放送されていたのか、笑いでもないし、浜田さんにとっても利益もないし、ちょっと分からないですね。

しかし、いじりいじられの芸は、ほとんどは爆笑するような、おもしろいものであるのも確かで、そういうものを面白いと思うと言うセンスが私たちの中にあるということでしょうね。

以前、鬼塚ちひろさんが Twitter か何かで、和田アキ子さんと島田紳助さんを、消えて欲しいとか死んで欲しいだとか呟いていて、問題になっていましたが、それを言うのがいいかどうかはともかくとして、気持ちは私は分かります。あの人たちの権力芸を見ていると、やりきれない感じを抱くこともあります。

ただ、あの人たちが権力になる前は、それがむしろ爽快でもあったわけですね。権力に立ち向かう側であった時には、いじりいじられも面白かったのですが、あの人たちが不幸な点があるとすれば偉くなりすぎたことでしょうか。

権力の側がいじる笑いと言うのは、漠然とほとんどの人が思っているように大阪発なのでしょうか。吉本新喜劇とかはそうではなかったように思います。いつごろからテレビで主流になったのでしょうか。

古い喜劇のフォーマット、社長シリーズとか寅さんとかは、偉い人がいじられて笑われるのが基本でしょうか。ドリフのコントは、あれだけ有害扱いされたのですが、実は権威をたたく構図が基本であって、いじめにはならないようになっていますね。

権力者であるいかりや長介が叩かれからかわれ、そこで笑いが生まれるというのが基本フォーマットです。

つらつらと考えれば、いじり芸の源流はコント55号、そして萩本欽一のような気がします。コント55号のコントは今見ても面白いと言うか、少し狂気があるのですが、坂上二郎さんをいじめていじめて萩本欽一さんが笑いを取るという、アヴァンギャルドな匂いがありますね。

あの、善人顔している萩本欽一さんの中に、暴力性への希求があるというのは、意外かも知れませんけど、今のテレビの中の素人いじりとかは萩本さんに端を発しているわけで、そこから首都圏的な洗練を剥ぎ取って見せられるので、特に関東の人は近親憎悪みたいな感じで大阪の笑いを毛嫌いする人も多いのかも知れません。

テレビの中でいじられている芸人があれがあるおかげで飯を食えているというのも本当のことなんでしょうが、それを批判している人が、芸人はあれでおいしい思いをしているんだから批判するなんてお門違いみたいに言われるのは違うと思うんですよね。別にその芸人のために批判しているわけではないでしょうから。

社会においてジョークとしては処理されてはならないことが処理されていることを問題視しているのでしょうから。

1985年頃の映画で、「ミスター・ソウルマン」という映画があります。

これは黒人向けの奨学金を得るために黒人に化けた白人学生が、黒人たちの日日の現実に直面するお話です。コメディですが扱っている内容自体はシリアスです。

大学のカフェテリアで、黒人を道化にしたジョークを大声で話している白人たちがいるのですが、それを聞いても最初は主人公はただのジョークじゃんとしか捉えられないのですが、いざ、自分が黒人の立場に立たされてみて、最後には、その白人たちをぶちのめして、

「ただのジョークだよ」

と言うのですが、この映画、なぜか白人には受けが悪いんですね。本気でただのジョークだと思っていて、そういう人たちが、反撃されると加害者なのに被害者意識を持ってしまうんです。

お笑いの暴力性の問題はここが厄介なところです。