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同志社に批判的だった勝海舟

勝海舟は1823年に生まれ、45歳の時に明治維新を迎え、1899年、76歳で死去しています。幕末維新の時代を伝える人として、奇跡に近い適役の人ですね。

第一に、幕府でも維新でも高位公職についていて、内実に詳しい。第二に人脈が多岐に及んでいて、ありとあらゆる党派に知人や弟子がいる。第三に話が面白い、当人も話好きであると揃っていて、幕末維新史の参考として、勝海舟政談録である『氷川清話』や、それよりは「素材そのもの」という感じが強いのですが、『海舟座談』は是非とも読んでおくべきでしょう。

これは『氷川清話』の中の有名なエピソードですが、海舟が西郷を龍馬に紹介して、龍馬が西郷を評して言うには「大きく叩けば大きく鳴り小さく叩けば小さく鳴る」と言ったことについて、さすがに龍馬は本質をつかんでいるとして、海舟は「評するも人、評されるも人」と言ったといいます。

海舟はこのように幕末維新の著名人に何らかのつながりがあったのですが、その人脈の中心にいる人が人物評の達人だったのですから、その評を読めば、教科書の記述からはうかがい知れない、人間たちの生き様が浮かび上がってきます。

さて、海舟は明治になってからも明治三十二年まで生きていますね。ただ生きただけではなくて、海軍卿、枢密顧問官として政府中枢においても例のごとく人脈を駆使して調整者的な役割を果たしています。

将来的にこの分野が重要だと思えば、その分野を立ち上げようとしている若者をバックアップして、人脈を提供する、そういう仕事をメインに明治維新後の勝海舟はやっているんですね。

 

同志社の創立者・新島襄勝海舟がサポートしたのは事実です。新島の墓碑の文字は海舟が揮毫していますね。海舟と新島の歳の差はちょうど20歳、若い者に先立たれ続けた海舟の生涯ですが、期待をかけた新島に先立たれたのは、思うところがあったのでしょう。

けれども最晩年には、新島はどうも視野が狭くていかん、みたいなことを言っています。特に、『海舟座談』ではたまたまそういう時期だったのでしょうが、新島と同志社への批判が執拗になされています。

勝海舟はキリスト教を信じはしなかったけれど理解はありましたね。幕府の末期に長崎で耶蘇教信者が幕府に囚われた時には、解放するよう仲介もしていますし、西洋に出た時には積極的に教会にも顔を出していたようです。

息子の嫁もアメリカ人ですし、異教だからどうしたとか、そういう考えは勝にはありませんでした。文化として、社交として、キリスト教文明を尊重したのです。その勝から見れば、仏教や神道に無理解、否定的な新島が視野が狭いように見えたんですね。そういう信念のようなものから、ちょっと一歩引いて見てみろよ、信念の上に大学を建ててもろくなことにはならんぜ、というのが勝の考えですね。

キリスト者である新島には受け入れられないことです。新島はキリスト教をもちろん大真面目に信じています。何かを信じると言うことは何かを否定すると言うことです。

この点、妻の新島八重の方がよほど融通が利いていますね。彼女もまたキリスト者なのですが、晩年は禅宗に傾倒しています。メディアからこのことを聞かれて、「キリスト者が禅の法話を聞いていけないという話がありますか。いいものはいいのです」と返答しています。

和洋折衷の生活態度から徳富蘇峰から「鵺」と呼ばれた新島八重ですが、勝海舟は明らかに「鵺」なるものを評価しています。それはただ単に和洋折衷とかそういう表面的なものだけではなくて、「いいものはいい」という精神的な自由を大切に思っていたからでしょうね。そういう自由な人だからこそ、尊王、攘夷、佐幕、開国と国論が入り乱れる中で一番「まあ、まっとうな道」を提示できたんです。

 

「新島が死んで同志社も大変、でも生きていればもっと大変だっただろう」

とか、

「いったん同志社を潰してそこから新しいものを立ち上げるしかないね」

と言うように、新島の死後、同志社に批判的な立場を強めていった勝ですが、結局、同志社の行く末をたびたび人にたずねて案じています。

これは人的なつながりゆえ、という面もあるでしょうね。

勝海舟はいろんな人に学んでいますが、自分でこれが俺の先生だと言っているのは横井小楠だけですね。横井小楠は肥後熊本藩の人で、越前松平家松平春嶽の政治顧問でした。維新後すぐに小楠は暗殺されるのですが、小楠の長男が横井時雄です。

横井時雄は、山本覚馬の娘・みねの夫です。山本覚馬新島八重の兄ですから、新島家とも同志社ともつながりが深く、後に同志社総長を務めています。

横井家と言うのは面白い家系で、北条得宗家の子孫なんですね。鎌倉時代の末期、新田義貞の軍に追い立てられて、長らく鎌倉幕府の執権として日本を支配していた北条家一門は鎌倉祇園山の奥、東勝寺にて自刃、鎌倉幕府は滅亡します。

北条一門の大半はこの時、滅亡しているのですが、北条一門最後の当主、北条高時の一子・時行のみが生き延びました。唯一生き残った北条時行の生涯も波瀾万丈なのですが、この北条時行の子孫が横井家です。ですからこの家は代々、「時」の字を男子は名乗っているんですね。

横井時雄は一時、伊勢時雄を名乗っていますが、この伊勢は伊勢平氏の伊勢であり、北条氏が平氏であることから、伊勢を名乗っているものと思われます。北条と言えば、鎌倉北条氏と小田原の、いわゆる後北条氏がありますが、北条早雲から始まる後北条氏伊勢平氏であるには違いなく、室町幕府の名門である伊勢氏に後北条氏が端を発しているというのは現代にあっては歴史上の常識です。

横井時雄とその妻みねとの間に生まれた男子・平馬は、母方の実家である山本家の養子となって、武田の軍師・山本勘助の子孫とも言う山本家を継いでいます。山本家は源氏ですが、その跡取りの名が「平馬」というのは、馬はもちろん山本覚馬からつけたのだとして、平は父方の平氏の血統、鎌倉時代以後は言わば平氏本流である北条得宗家の血統であることを示しているのだと思います。

横井時雄は、小楠の息子ですから、勝からすれば師匠の息子さんにあたるわけです。気分的には林家ペー林家こぶ平(現・林家正蔵)を「ぼっちゃん!!!」と呼ぶのと同じでしょう。

勝はそれで晩年にはしきりに横井時雄の動静と同志社の様子を気にしていますね。