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朝ドラは震災をどう描いたか~『あまちゃん』と『甘辛しゃん』

1995年1月17日、私はその日、朝6時頃に起きて、いつも通り『めざましテレビ』を見ていると、大阪で地震があったと伝えていましたが、震度が5程度だったので、大したことないと私も思い、テレビの中でも芸能ニュースなどをいつも通りやっていました。

昼食を食べない私は、それから夕方までずっと家に籠って書き物をしていました。19時頃にテレビをつけて、仰天しました。

同じ日本に住んでいても、自分の家の近くでなければそんなものです。2011年3月11日のあの日、私は東京の都心にいました。地震の直後、奇跡的に母から携帯に電話があったのですが、もう毎日遊んでいてもいい年齢の母はお友達と昼から宴会中で、お友達を相手に私をネタにして冗談を言っているのを聞いて、怒鳴ってしまいました。

こちらも大変な状況でしたから。その大変さはまだ母がいたところでは伝わっていなかったようです。後から、あそこまでの惨状とは思いもしなかったと泣いて謝ってきましたが、いや東京はそこまでではないからとばつが悪い思いで言い訳しつつも、湾岸のあたりは道路がうねっていたり液状化で家が傾いていたり、相当な被害でした。東北の被害がすさまじかったので相対的に被害が小さく見えただけです。

 

大好評のうちに終わった朝ドラ『あまちゃん』ですが、東日本大震災を描く、言及する最初の連続ドラマということで、あの震災をどう描くかが話題になっていました。みなさんがごらんになったように、かなり抑えた、寓話的な描写になっていました。

キスシーンで花火が上がる往年のハリウッド映画のように、象徴的に描いて、後は察してくださいという感じ、登場人物の誰も死んでいない、被害にもほとんど触れられていないその描き方は、少し、逃げ、を感じました。

もちろん、そう書かざるを得ないというのは理解できます。あの地震を正面から描けば、『あまちゃん』は地震の話になっていたでしょう。アイドルの話でもなく、海女さんの話でもなく、北三陸の話でもなく、それらをすべて飲み込む津波のように、地震の話になっていたでしょう。

そう、あの津波のように。

1万8000人を越える死者行方不明者にはそれぞれの物語があったはずです。恋愛物語もあれば、ホームコメディもあり、スポーツドラマもあったはずです。その無数の物語をあの津波は押し流してしまいました。

そうするのかな、と思っていました。

中学生の時に、平和授業でアニメーション映画『はだしのゲン』を観ました。ものすごいトラウマになったのですが、原爆前までの話は普通に少年の物語として面白く、キャラクターは魅力的でした。私は物語に引き込まれていました。その物語を原爆は断ち切りました。だからこそ断ち切られた無数の物語のとうとさ、それが失われた痛みを私は感じたのです。

あまちゃん』はそのように描くのかなと思っていましたが、そうではありませんでした。『あまちゃん』は寓話性を維持したまま、終わりました。

それがいいとか悪いとかはいいません。その判断は私にはつきませんが、やはりあのものすごい惨状を目の当たりにして、なおかつ寓話性を維持できるのは、ちょっとした呑み込み難い嘘を感じます。

そしてそのことに、フィクションでさえまだ私たちにはあの過去と対峙する力が無いのだと思い知らされたことで、なおのことあの惨状が余りにも大きなものであったことを認識させられました。

あまちゃん』の寓話性をそのままの形で終わらせたかったならばどうして東北を、北三陸を舞台に選んだのでしょう。伊勢でも良かったのではないでしょうか。もちろん、伊勢が舞台では「復興支援」になりません。復興に力を尽くす人々の「希望の物語」にはなりません。それでも、核心の部分をあえて避けたことで、いじめや教師内のハラスメントなど学校が抱えるあらゆる問題にほうっかむりをしながら式典の答辞だけは立派な校長先生の弁のように、むなしい思いを感じずにはいられません。

あまちゃん』を批判しているみたいになっていますね。これは批判とはちょっと違うものです。伏線をすべて回収してゆく手法は大したものですし、現在、日本で一番長いドラマである朝ドラで、まったくだれることなく視聴者の興味を維持した宮藤さんの手腕は評判通りのものです。当代を代表する脚本家ですね。

あまちゃん』の物語としての凄さを解説する記事はこれからもたくさん書かれるでしょうし、実際、称賛に値します。

私はこの物語が、天野アキという等身大の少女を剥き身のまま描くのではなく、寓話性というフィルターを通すことでしか、この物語の持つ数々の魅力、能天気さやキャラクターの面白さが描けなかったということに、あの震災を経験した者の一人として、あの震災以前の何がしらを取り返せない、そういう思いを抱いているのです。

あまちゃん』は日常を描いているようで、寓話性が強いお話です。今日、東京で個人タクシーをやっていて、月30万円の利益を出すのはかなり難しいでしょう。世田谷にあのマンションを購入して、年収が400万円に満たないのでは、結構生活が厳しいはず、個人芸能事務所を自宅に立ち上げるにしても、あんなに大きなデスクや応接セットはいきなり買えないはずです。

北鉄の給料だとか、休漁期の海女さんの生活保障とか、そういうことが私はすごく気になります。仕事は無いと言いながら、ストーブさんは観光協会にすんなりと就職していますし、観光協会の収支はどうなっているのでしょうか。田舎であの職は、公務員とか農協職員並の垂涎の的だと思うのですが。

ストーブさんはどうも大学には行っていないみたいですし、ユイちゃんは高校中退ですし、お父さんは田舎の学校の先生なら立場が無いんじゃないでしょうか。まして市長に選ばれるなんて、ちょっと考えにくいです(そう言えば平泉成さんは前作『純と愛』に続いての朝ドラ出演ですね)。

生活、のことを考えたら、『あまちゃん』はあんまり生活のことを考えて描いているようには見えません。だから寓話的、なのです。それがいいか悪いか。

いい面もあるでしょうし、悪い面もあるでしょう。

私の見方が変なのかも知れませんが、すごく気になった場面がありました。ひとつは、アキが歌いながら駅のホームで足を上げてリズムをとるところで、ホームの座席に靴を履いたまま乗っていたこと。

非常にお行儀が悪い。悪いのですが、これが意図的か無作為なのか、判断が迷うところです。アキの父親は細かいのですが、母親の春子は元スケバンなので、こういうことできちんとしていなかったとしてもありそうだからです。こういうことはちっちゃなことですが、イスラム教徒が豚肉を食べられないように幼少期に刷り込まれたことは、些細なことでも決して逸脱出来ないものです。

天野アキが野生児っぽい、良いことばで言えばおおらかに育てられているので、「ちっちゃなことは気にしない」のかも知れませんが、ヒロインに対する好感をわざわざ危機にさらすような真似をするでしょうか。

あと、電車(ではなくてディーゼル車、大吉さんの台詞を借りれば、レールの上を走るバス)の窓から大きく身を乗り出す場面が何度かあった点です。ものすごく危ないです。車掌さんはあそこは叱るべきでしょう。

リアリズムは細部に宿りますから、『あまちゃん』は決してリアリズムのドラマではありません。座席を土足で踏みつける行為も「元気がいい」という符号、電車の窓から身を乗り出す行為も「駆け寄りたい気持ち」を表す符号、行為と意味が現実からずらされているという点でも『寓話的』なお話でした。

 

1997年から翌年にかけて、NHK朝の連続テレビ小説は『甘辛しゃん』を放送しました。朝ドラはだいたい東京と大阪で持ち回りで制作されていますが、大雑把に言って大阪放送制作作品の方が出来が悪いです。例外もあります。『ふたりっ子』『あすか』『ちりとてちん』『カーネーション』はしっかりとした作品でしたが、『やんちゃくれ』みたいなのを作っているようならどうしようもありません。『純と愛』は試みは買いたいですね。でも朝には見たくないですね(私は録画して夜、見ているのですが)。

『甘辛しゃん』は大阪制作としてはわりあい出来がいい方ですが、その分、いつもの笑いの要素が無く(主人公の夫は落語家であるにも関わらず)、ひたすら暗いドラマです。暗いと言うと言葉が悪いですね。落ち着いたドラマです。

主人公は母子家庭で、母親役の樋口可南子がいい演技でした。あんな人と結婚できたらいいなあと思わせる演技、糸井重里が羨ましいです。で、母親が灘の作り酒屋に住み込み家政婦として働きに出るのですが、そこで若旦那と恋仲になって後妻に収まる、主人公と坊っちゃんは義理の姉弟になるのですが、主人公と坊っちゃんがねんごろになって、禁断の恋、どうしようという話になります。

血がつながっていないんだから結婚すればいいのに、と思いますが、世代的にはベビーブーム世代なんですね。当時はそう簡単にいかなかったのかも知れません。

で、坊っちゃんは出奔、主人公が造り酒屋を継いで、何十年かぶりに坊っちゃんが実家に戻ってきたところで、阪神大震災、家屋倒壊で坊っちゃん死亡、そういう話でした。

あの廃墟ぶりがやたら生々しくリアルだったため、視聴者も震災を味わった感じがしました。震災被害者の方はセカンドレイプというか、トラウマがよみがえる思いがしたのではないでしょうか。

 

やはりそういうことを踏まえると、東日本大震災は、まだ早い、のかも知れませんね。