マスダ80年代女性アイドル論~中森明菜論 (転載)

80年代女性アイドル格付シリーズは英時一がはてな匿名ダイアリーで連載したものです。今回、ブログ開設に伴ってこちらにも転載することにしました。

80年代女性アイドル格付

http://anond.hatelabo.jp/20130821065806

を書いたマスダです。

今日は中森明菜について。

(追記)

こちらを見落とされている方が結構いらっしゃるようなので。

マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子

http://anond.hatelabo.jp/20130825215309

今回は松田聖子論に続く「第2回目」です。「80年代女性アイドル格付」の順位順に書いています。次回は小泉今日子です。

 

松田聖子もずいぶん批判されましたが、今になってみれば、いったい何が批判されたのか、よく分からないところがあります。恋多き女性という印象もありますが、婚約・結婚を含めて彼女は4人の男性と法的なパートナー関係を結んだ経験がありますが、いちいち結婚という形をとりたがるのは彼女の価値観の基盤が実は案外保守的だからです。パートナーに対して彼女が求めるのは第一に学歴を含む社会的な地位で、判断基準は「父親が認めてくれそうな男性」というところにあります。郷ひろみは芸能人の中ではインテリ志向であるし、大学中退で英語も話せるので、聖子は父親の眼鏡にかなうと思ったのでしょうが、結果的には無理で、それで両者の関係は破綻したのでした。聖子はそういう時には、しょせんは他人である恋人よりは父親を選ぶ女性です。

久留米に在住していた高校時代、彼女は久留米大付属高校の男子生徒と交際していたという説と、暴走族の男性と交際していたという説がありますが、後者はまず考えられません。父親が許すはずがないからです。

聖子に対する批判は「女性が主体的に取捨選択をする」という生き方に対する批判で、そういう生き方が一般的になった現在、松田聖子批判は一体何だったんだろう、という思いがします。人格や対人関係において聖子が批判されることは少なく、あるのは分かりやすい嫉妬、あるいは批判者の自分の価値観において相容れない部分があるからでしょう。聖子に対する批判者として有名だったのは(後に和解していますが)和田アキ子で、基本構造はスケバンがぶりっ子を毛嫌いするという分かりやすい形をしているのですが、和田アキ子は実はそんなに単純な人ではなく、ホリプロを代表するタレントとしてホリプロの経営者的な視点で批判を強めたり弱めたり、批判しなかったりしています。かつてホリプロに所属し、後に独立した石川さゆりに対して、独立後ににわかに批判を繰り返したのもその例です。大手芸能事務所のタレントを批判することは基本的にはしない人なのですが、サンミュージック所属タレントは例外で、サンミュージックの創業者の相澤秀禎氏がホリプロとたもとを分かって、ホリプロをいわば「裏切って」独立したことから、ホリプロとサンミュージックの間には静かな確執関係があります。和田アキ子による聖子批判は基本的にはその文脈で理解されるべきでしょう。

研ナオコはパーティーで聖子が挨拶をしなかったことについて、「私はあんたたちとは格が違うとでも思っているのかしら」と揶揄していますが、実際に格が違うのですから、これは現実を受け入れられない研ナオコの側の問題です。研ナオコは悪口しか言っていないと言っていいほど、この種のレベルの批判を全方位的に繰り広げていますが、そういう人なんだというしかないですね。

聖子は時代の象徴になってしまったため、時代に対する批判までをも彼女は引き受けざるを得なかったのですが、他の女性アイドルで批判されることが多かった人と言えば、第一に中森明菜で、第二に南野陽子です。ふたりとも弱小事務所に所属していたというところに共通点があります。

けれども、南野陽子はともかく、明菜への批判は、単に事務所が小さかったからでは済まされない、執拗で熱意のこもったものでした。中森明菜はそんなに問題がある人なのでしょうか。

先日、松本伊代堀ちえみがバラエティ番組で、82年組は仲が良かった、中森明菜はそうでもなかったけれど、という話をしていました。明菜とは仲が悪かったんですかと話を振られて、堀ちえみがフォローしようとして、「仲がいいも悪いも、あんまり接点が無かっただけなんですよ。だから好きも嫌いもないんですよ」と言ったのに対して、松本伊代は「私は嫌いなの」と明言しました。30年以上前のこと、しかも相手は現在、病気療養中の人に対してああまで悪意をむき出しにして言うほどのことが果たしてあったのでしょうか。

82年組の中で中森明菜が孤立していたのは事実です。明菜と親しかったのは小泉今日子くらいで、初年度の賞レースが終われば、82年組の中で歌番組の常連として生き残ったのは明菜と小泉今日子くらいでしたから、明菜としては松本伊代に嫌われても何の実害もなかったでしょうが、松本伊代がかなり執拗に激しく明菜を嫌っていたのは数々の証言があります。

松居直美は、彼女もスタッフに対する暴言などで評判があんまりいい方ではなかったのですが、「明菜とは親しくするな」と松本伊代から言われたことを明言しています。そうは言っても明菜は普通にいい子だったので、そんな助言は無視した、と言っていましたが。松居直美欽ちゃんファミリーだったので、松本伊代の意向など無視できたのです。

松本伊代は区切りでは82年組で、実際のデビューは81年の10月であり、82年組の他のアイドルにとっては既にスターであり、先輩格であったので、82年組の中では自然とリーダーシップをとる存在になっていました。明菜が孤立したのは松本伊代の意向によるところが大きかったのは確かですが、明菜が自ら壁を作るような面があったのも確かでしょう。同じく批判されがちなアイドルであった南野陽子は、後から事情を聞けばもっともな事情もあり、それが彼女のパーソナリティの問題ではない傍証としては友人も非常に多いことが挙げられるのですが、明菜には誰とでもうまくつきあえる小泉今日子以外には友人と言うような人はいませんでした。

新田恵利は歌番組で明菜と一緒になった時、挨拶に行ったら無視されたのだけれど、別のパーティー会場であった時、やたらなれなれしく親しく接してきたのでその豹変ぶりが怖かったと言っています。社会人一般の社交として明菜の態度が独自基準で動いている、少なくとも一般的ではないのは確かでしょう。

ただし彼女は仕事上のことは別として誰かを攻撃したり、悪口を言ったりするようなことはしていません。仮に「性格に難がある」のだとしても、彼女が関心があるのは自分の生き方に限られていて、他人にどうこう干渉することは一切ありません。明菜を見ていると、果たして「性格がいい」とか「性格が悪い」とは一体何なのだろうと考えさせられます。他人のことにあれこれ指図するような真似もまた性格がいいに含まれてしまうのか。ひとつだけ言えるのは、明菜のことが嫌いなら嫌いで放っておけば、何の害ももたらさない人だと言うことです。誰かを攻撃するような真似はしないのですから。

ザ・ベストテンのプロデューサーはこの番組を心から愛して、リハーサルから熱意を以て付き合い、他の歌手が歌っている時も熱心に聴いていたアイドルとして、中森明菜南野陽子の二人の名を挙げています。80年代アイドル黄金時代を心から愛していたふたりのアイドル、私は単に視聴者として二人を見ていただけでしたが、確かにこの二人にはアイドルとしての「生真面目さ」が際立っていたように思います。

 

中森家のルーツはどこにあるのでしょうか。今一つそこに触れた文章は無く、今のところ不明ですが、中森家のありようを見ていれば、社会からやや孤立している印象を受けます。中森明菜は東京都清瀬市の出身ですが、土着の家系なのかどうか、それが気になります。と言うのは、田舎から出てきて、転職を繰り返したような人の場合、地縁、血縁、会社縁が切れている人が多く、創価学会はそういう人たちを対象にして成長してきたのですが、宗教によるつながりもなければ、家族でこじんまりとまとまっているケースが多いからです。「亡命者の家族風景」であり、コルシカ島と言う故郷を失ったボナパルト家が排他的な家族的結束を強めたように、中森家にはどこか亡命者のマインドがあります。

明菜には友人が出来ないのではなく、作らない、通り一遍の社交以上の価値を見出さないのは、家族という単位が直接世界と向き合っている、そういう世界観を持っているからです。明菜は適性に合った役ならば、天才的と言うほどの演技を見せる、そういう才能もあります。1998年のテレビドラマ「冷たい月」ではかつて自分の夫を結果的におとしめた専業主婦に友人のふりをして近づき、その主婦の家庭を乗っ取って崩壊させる女を演じていましたが、おそろしいほどのはまり役で、役と役者が同一視されてしまう危険すら感じさせるものでした。その後、明菜は役者業からは遠ざかったので、結果的にその懸念は杞憂に終わりましたが。1992年に放送された「素顔のままで」では安田成美演じる女性と親友になる女性を演じていましたが、最終的には安田成美演じる女性の子を、自分の家庭的幸福を捨てて引き取って育てるという結末でした。「素顔のままで」は友情を描いた作品ですが、友人を必要としない明菜には一見合わない役のようですが、「非常に親しい人は友人と言う中間的な領域ではなく家族に組み込まれる」という中間的な領域の欠如した明菜の世界観に沿った役でした。

90年代の終わりにトーク番組に出場した時、明菜は許せない相手として「共演者にはそういう人はいないんですが、スタッフにはいますね」と述べています。松本伊代からどれほど冷たくあしらわれようとも、松本伊代の側がどれほど強く明菜を意識していようとも、明菜には伊代は視界にも入っていないことが伺えます。家族ではないからどうでもいい存在なのです。スタッフはある意味、家族の周縁部にある存在で、ここに対して仕事をしてゆくうえで中森明菜は無条件の理解を当然のこととして要求したのではないでしょうか。それが軋轢になったのでしょう。

 

中森明菜は「スター誕生」末期に出てきた人で、小泉今日子もほぼ同時期にその番組から輩出されています。両者とも圧倒的な高得点で合格したので、複数の選択肢の中から所属事務所を選べる立場にありました。小泉今日子は最大手のバーニングプロダクションを選びましたが、明菜は弱小事務所の研音を選んでいます。研音はいまでは大手も大手、最有力の一画を占める芸能事務所ですが、当時はめぼしいタレントがいなくて明菜に社運をかけていました。明菜が研音を選んだ理由は定かではありませんが、おそらく収入等の条件が他よりも良かった、それで親がそこを選んだのではないかと思います。

アイドルの収入ですが、驚くほど少ないのが実態です。南野陽子は、「ベストテンで1位をとっていた頃でも月収が3万円だった。あんまりだろうと直談判したらケタが二つ上がった(100万円台になった)」と述べていますし、堀ちえみは「自分もしばらくは3万円くらいで親から仕送りをしてもらっていた。スチュワーデス物語がヒットしてようやく月収30万円に上げて貰った」と述べています。

明菜は早い段階で親兄弟に店舗を持たせるなどの経済的支援をしていますから、経済的な条件が他のアイドルよりは恵まれていたのは確かでしょう。ただし弱小事務所に所属したハンデはあって、賞レースでは明菜は初年度はほぼ無視されています。デビューの年にはすでに「少女A」をリリースして、メガヒットもあり、82年組の中でもトップの実績を示していたのですが、その年のレコード大賞では優秀新人賞も得ていません。最優秀新人賞を獲得したのはシブがき隊で、優秀新人賞を得たのは、松本伊代堀ちえみ、石川秀美、早見優でした。今から見れば冗談みたいな結果でしたが、このことは相当な物議をかもし、いくら賞が事務所の力関係が反映されると言っても、中森明菜を無視しているようなら上辺だけの公平さすらないではないかと言って、作詞家の阿久悠は審査員を辞任しています。

 

明菜は不良少女路線で売り出されたと思っている人は多いのですが、実際にはそうでもありません。明菜の本質は「非」であって「反」ではないからです。独立しているということは何か支配的なコミュニティにアンチであることを意味しません。アンチコミュニティにおいても明菜は非であることによって孤立するでしょうから。明菜は聖子を芸能として愛でていますが、ただ彼女とは同じことは出来ないのでした。

デビュー作「スローモーション」は来生姉弟の作詞作曲ですが、この「非」の部分を上手く捉えています。明菜には主張はないのです。しかし主張がないというのは非常に分かりにくいので、「少女A」では流通しやすい不良少女の側に寄り添った装飾がほどこされています。

このことは、明菜には楽曲の世界観と彼女のキャラクターにはあまり関係が無いことを示しています。もちろん聖子的な世界観を歌えば、無理があるのですが、それは聖子の楽曲の世界観がニュートラルではなく、それなりの主張をはらんでいるからです(何を「可愛い」とするかはそれ自体が価値判断の表明です)。

聖子の曲、に対して明菜の歌、とも言えます。これは聖子に「歌う」能力がなく、明菜の楽曲に楽曲としての質が担保されていないということを意味しませんが、極端に言えばそういうことになります。聖子は彼女の歌唱力で以て楽曲を表現するのです。明菜は楽曲の世界観に拘泥せずに自身の歌唱自体を表現するのです。ですから明菜の楽曲はむしろ世界観は薄い方がいい、ステレオタイプな理解され易さがあればそれでいい、ということになります。極論をすれば架空言語で歌った方がむしろいい、ということです。明菜には異国風の楽曲が多いのですが、実際、意味が分からない歌詞がしばしばサビで出てきています。

明菜の歌唱の本質は強弱にあります。そのコントラストが激しすぎて、音割れを防ぐために強の部分に合わせると弱の部分では何を言っているかさっぱり聞こえないということもしばしば発生しています。強弱はむろん、歌詞の流れに沿っていた方がいいわけで、おおむねそういう構成の作詞になっています。逆にそれをやり過ぎると、「聞こえない」が発生してしまうわけです(「難破船」がその例です)。「DESIRE」が明菜にとって代表曲であり、一番資質にあっているのは、尖った表現が全編にちりばめられていて、弱の強調をやり過ぎていないからです。彼女の力強いロングトーンが、弱が強調されていないために強の中の強として印象付けられる構造になっています。

「スローモーション」でも声は幼いのですが、「やはりあなたと一緒にいたい 一言 書きあぐね」の部分で、既に彼女の歌唱の本質を見せています。(失礼しました。これは「トワイライト」の一節でした)

中森明菜の楽曲には歌唱を見せる工夫は必要なのですが、それはプロの作詞家、作曲家ならば心得ていることです。統一的な世界観のようなものは必要が無い、むしろあってはならないのですから、松田聖子プロジェクトに匹敵するようなサポート体制を明菜は必要としませんでした。

様々な作家が彼女に楽曲を提供していますが、聖子における財津和夫細野晴臣松本隆大瀧詠一佐野元春松任谷由実のような「企画者」はいませんでした(それにしてもちょっとあり得ないような豪華な面子です)。

ある評論家は、松田聖子のプロデュースにおいては基本的に松本隆がひとりで担当した、だからいろんな面を出そうとして聖子の楽曲には多様性がある、しかし中森明菜は複数の人がそれぞれ別個に担当したため、マスイメージの中森明菜に沿った同系統の楽曲ばかりになった、と述べています。私も基本的にはそういうことなんだろうなと思います。

 

成功者の家族で平常心を維持できない人は結構います。大きなマネーが動くだけに、親と子は別人格、別世帯、別会計ということが分かっていない、仮に頭で分かっていても「これくらいしてくれてもいいのに」となってしまう人は多数います。アイドル歌手に限った話ではありません。子供への影響力が自分の経済力とイコールになるのですから、子供の結婚や独立を嫌う人もいます。名前は出しませんが、そういう例はたくさんありますよね。浪費型には娘に対する母親が陥ることが多く、管理型には父親が陥ることが多いようです。男性芸能人の場合は、結婚は「嫁を取る」という形にまだまだなりやすいので、結婚を機に別世帯であることをはっきりさせるのもやりやすいのですが、女性芸能人の場合は、私のものである娘、うちの財産である娘を結果的に婚家と争って取り合う形になりやすく、娘は夫をとるか実家をとるかの選択を迫られることになります。

 

ここで中森明菜が傾倒を見せた近藤真彦について考えてみましょう。

近藤真彦は男性芸能人としては、意外かも知れませんがわりあい人格者です。これは彼が早いうちからトップアイドルであったことを踏まえれば意外でもあります。女性アイドルと較べても男性アイドルは「貧困家庭出身」「孤児」「芸能界以外では使い物にならない不良」の割合が当時は大きかったのです。これは男性が一家の大黒柱にならなければならないという当時の当たり前の感覚からすれば、芸能界に関係して、売れればいいものの売れなかったらただの低学歴者になってしまうというプレッシャーがあったので、失うものが無い人でなければ芸能界に進むと誰よりも当人がふんぎりがつかなかったからです。もちろんそのプレッシャーは女性にもありましたが、嫌な言い方かもしれませんが当時的な感覚で言えば最終的にはお嫁さんになれば潰しがきく女性に対して、男性にはその逃げ道はないと言う事情もあります。

好条件でデビューを果たした、それなりに売れていた男性芸能人であっても芸能活動は学生時代の部活みたいなものと割り切って、進学、就職して行った人もいます。例えば映画『野菊の墓』で相手役に選ばれたKさんや、『時をかける少女』や『天国にいちばん近い島』などで相手役を務めたTさんなどが挙げられます。

近藤真彦は早くに芸能界にデビューしたのに、欠損家庭(これも嫌な言い方ですが)の出ではなく、親御さんもお子さんの名声を利用するようなタイプではなかったことを考えれば、まああの年齢相応に生意気ではありましたが、誰からも可愛がられる、「まともな家庭の子弟」でした。ジャニーズ事務所には男性アイドルを独占すると言う基本戦略がありますから、他社の男性アイドルに攻撃的で、それを察して他者の男性アイドルや男性グループを揶揄したり、意地悪をするジャニーズタレントもいます。沖田浩之も標的にされましたがそれをしたのは近藤真彦よりも下の世代(誰とは言いませんが)で、近藤真彦はそういうことには関わっていません。

明菜に対しても陰口をたたかれがちな明菜を普通に人間として評価する発言をしてかばっています。明菜は近藤真彦のスノビッシュなところがない部分を自分と同じ世界の人と感じていたのでしょうし、人間的にきちんとした部分に魅かれたのだろうと思います。そして彼を通して、自分の家庭が「きちんとしていない」ことを自覚したのでしょうし、そのきちんとしていない度合いは明菜がビッグネームになるにつれてますます大きくなっていったのでした。

「兄弟とかに援助をして店とかを持たせても、結局、自分で苦労して稼いだおカネじゃないからすぐに潰してしまう」

と明菜は後に家族と絶縁状態になって、当時を振り返ってそう述べています。研音は明菜の家庭を抑えれば明菜を拘束できると考えていましたから、請われるがままに明菜の親にお金を渡して、それを明菜が後で知るということも頻発していました。

「そういうお金のやり取りを通して事務所の人たちと自分の家族だけがどんどん親密になってゆくのに、自分の意向がないがしろにされて自分だけが疎外されていった」

明菜はそう述べています。

芸能人になると言うことはある程度そういうことです。商品になると言うことです。でも人間は商品ではないのですから、人間らしくあり得る逃げ場所が必要になります。家庭がまともであれば家庭が普通はその役目を果たすのですが、芸能事務所と家庭が結託することによって、明菜からはその逃げ場所が失われてしまいました。繰り返しますがこう言う例は決して珍しい例ではなく、まあ大抵はそうだったと言えるでしょう。前の世代は日本が貧しい時代に生まれ育った人たちだったので、そうやって親兄弟を養うのは当然と思ってそれを苦しいと思うこともほとんどなかったのかも知れません。中学を出たら集団就職で都会に出て、むしろ実家に仕送りをするのが当たり前だった時代であれば、家族のために犠牲になるのは当たり前すぎて問題と認識されていなかったでしょう。美空ひばり江利チエミ吉永小百合もみんなそうです。しかし明菜は先進国日本に生まれ育った世代であり、子供の権利条約云々ではありませんが、ボナパルティズム的な家族的結束が虐待と認識されるようになった日本において、その時代的な常識から家族に対して批判的にならざるを得ませんでした。

その結果、彼女は家族と絶縁し、友人もいなければ師もいない彼女にとっては唯一頼れる「社会的存在」であった近藤真彦に依存を強めていったのでした。近藤真彦も明菜に対して女性的な魅力を感じていなかったわけではないとは思いますが、少年らしい素朴な正義感から接した割合も大きかったのだろうと思います。しかしどんどん関係が深まって、伴侶とするかどうかまで突きつけられた時に、そこまでは彼女の人生を背負えないと思ったのではないでしょうか。無理からぬことです。

そして破綻して、ああいう事件が発生してしまいました。

彼女のアイドルとしてのキャリアはいったんそこで終止符を打ったと見ていいかと思います。「スローモーション」から「LIAR」までシングル23作品はすべてチャート上位に入り、80年代を代表する歌姫となりました。

 

今から見ても、彼女のパフォーマンスは歌唱、ダンス、衣装、スタイル、すべてにわたって芸術的といっていいほど洗練されています。細部にわたるまで彼女自身の意向が反映されていて、90年代以降にも類例がない、完成度が高いステージを彼女は提供しています(当時はそれが余りにも普通であったので、かえってその価値に気付かない人がたくさんいました)。単に時代の鏡ではなく、日本芸能史における古典として、松田聖子中森明菜のパフォーマンスは次世代以後に継承されてゆくべきものです。