ありのままに生きる松たか子

木村拓哉主演の「HERO」、視聴率も好調なようですが、やっぱり松たか子がいないのはちょっと残念ですね。スポーツ紙によれば、松たか子は、妊活のため仕事を絞っているということですが、今クールでは田村正和と共演する「おやじの背中」で主演するので、主演作を優先させた、ということでしょうか。

さて、松たか子ですが、吹き替えと劇中歌の歌唱を務めたディズニー映画「アナと雪の女王」の大ヒットで、何度目かのブレイクを迎えていて仕事に関しては絶好調のようです。

現代の女優のキャリアとして松たか子ほど理想的な歩みを進んできた人は他にいません。当人の才能と努力ももちろんあってのことですが、環境に恵まれていたのも確かです。

絶対女優、松たか子の何が優れているのか、その歩みを見てみましょう。

 

松たか子は1977年、当代の松本幸四郎の次女として生まれています。兄に市川染五郎、姉に松本紀保がいます。

松たか子が生まれた歌舞伎の名門・高麗屋は、兄の染五郎が市川姓を名乗っていることからも分かるように、広い意味で成田屋一門になります。高麗屋、つまり松本幸四郎家は市川宗家の筆頭分家格の家柄で、例えるならば徳川幕府における尾張藩のような位置づけになります。

市川宗家が事情があって断絶すれば高麗屋市川宗家に人を送り、團十郎を襲名させる、そういうことが過去に何度か起きています。

現在の高麗屋の家祖は当代の幸四郎にとっては直系の祖父にあたる七代目・松本幸四郎で、この人はもともと梨園の出身ではなく、歌舞伎界の門閥制度を嫌っていました。明治なって歌舞伎を近代化させた功労者である九代目・市川團十郎の筆頭弟子になりました。歌舞伎界で九代目とただ言えばこの九代目・團十郎を指すほど歌舞伎界に貢献があった人です。

この九代目の口利きで、たまたま絶家となっていた松本幸四郎家を継ぐことになり、何の因果か、歌舞伎界の門閥を嫌っていた七代目・幸四郎ですが、自らが大門閥を作り上げることになります。

七代目・幸四郎には息子が三人いたのですが、長男は市川宗家に養子入りし、十一代目・市川團十郎になっています(現在の市川海老蔵の祖父にあたります)。次男が高麗屋を継ぎ、八代目・松本幸四郎(後に隠居名として初代・松本白鸚)となります。三男は音羽屋、六代目・尾上菊五郎に弟子入りし、二代目・尾上松緑を名乗ります(大河ドラマ葵徳川三代」で徳川家光を演じた尾上辰之助、現在の四代目・尾上松緑はこの人の孫にあたります)。

これだけでも市川宗家から音羽屋にまたがる大権閥なのですが、当代の松本幸四郎の母が初代・中村吉右衛門(歌舞伎界中興の祖と言われる人です)の娘であったことから、当代・幸四郎の実弟は、時代劇「鬼平犯科帳」主演で知られる人間国宝、二代目・中村吉右衛門であり、歌舞伎界もうひとつの権閥、播磨屋一門につながっています(萬屋一門や中村屋一門は、初代・吉右衛門の弟筋にあたります)。

ただし高麗屋は、政治的な動きが結果的には得意ではなかったと言え、松本幸四郎がテレビやミュージカルに活躍しているように、新しいことに率先して取り組む家風があり、松竹傘下の現在の歌舞伎体制に必ずしも与しない、他社と契約するなど、市川宗家を含めて、高麗屋は政治的には傍流の道を歩んできました。

戦後、松竹体制下の歌舞伎界を政治的に掌握したのは、女帝と言われた六代目・中村歌右衛門で、彼と十一代目・團十郎の対立は語り草になっています。

六代目・中村歌右衛門成駒屋はもともとは成田屋の弟子筋で、東西に分かれ、一時はその代表名の中村福助は東京と大阪で別人が襲名しているというようなこともありました。大阪の成駒屋の当主格が三代目・中村鴈治郎(女優、中村玉緒の兄。元参議院議長・扇千景の夫)で、東西の成駒屋の対立は、上方歌舞伎の大名跡、坂田藤十郎鴈治郎が名乗ることで決着したようです。名跡・中村福助は結局、東京の成駒屋のものとなりましたから、六代目・中村歌右衛門の政治力の勝利です。

九代目・中村福助(七代目・中村歌右衛門を襲名予定)や三代目・中村橋之助大河ドラマ毛利元就」主演)らは女帝・中村右衛門の甥にあたります。

さて、六代目・中村歌右衛門は芸事にも厳しく、政治的にも統制が厳しい人でした。当代の坂東玉三郎は、女形トップの座を巡って六代目・中村歌右衛門と争う立場にあったので、長らく歌舞伎座では良い役を貰えませんでした。玉三郎が「赦された」のは女帝が晩年になってのことです。

当代・幸四郎は、十二代目・市川團十郎の従兄弟になりますので、人脈的には市川宗家に近いことになります。十一代目・團十郎とは激しい確執のあった女帝・歌右衛門ですから、家同士の関係では、高麗屋と女帝の間にはやや距離がありました。

松たか子がテレビドラマでは初めて主演したNHKドラマ「藏」(宮尾登美子原作、最初は衛星放送で放映されました)を視て、最晩年の女帝・歌右衛門幸四郎松たか子に激賞の電話をかけてきたことが忘れられぬエピソードとして、父娘対談では語られています。

ただ単に、そのドラマでの演技が良かったというだけではなく、その傑出した才能を歌右衛門は見出し、梨園が生んだ最高の女優になると太鼓判を押したのでした。

最晩年の頃の女帝は人生をまとめにかかっていて、長らく敵対関係にあった玉三郎とも和解して、自ら稽古をつけて、後進に梨園の将来を託すなど、若手の育成に力を尽くしていました。

芸事にはとにかく厳しい人で手放しで褒めるということはしなかったようですが、松たか子の才能にだけはとことん惚れたようです。

 

実際、今、見直しても、「藏」での松たか子の演技は、どこをどうとっても完璧です。天才と言う言葉はこの人のためにあるようなものです。

自伝小説、歴史小説を含む伝記小説が多い宮尾登美子ですが、「藏」は1992年から翌年まで毎日新聞に連載されたオリジナル長編小説で、明治大正から昭和にかけて、新潟県に生きた盲目の女性、烈とその家族をめぐる物語です。連載当初から大反響を呼び、連載終了後、舞台化、映画化、そしてテレビドラマ化されています。

映画では烈役に内定していた宮沢りえの降板騒動などがありましたが、宮沢りえが出演していたならばともかく、していない映画版は実際のところ、テレビドラマ版に比較して数段、役者の技量も完成度も落ちます。

テレビドラマ版では、烈を松たか子が、烈の叔母の佐穂を檀ふみが、烈の父の意造を鹿賀丈史が演じました。完璧な配役です。

盲目でありながら誇りだかく気が強い烈を、松たか子は完璧に演じました。父の後妻のせきを下女扱いして辛くあたる場面など、普通は烈が敵役になってしまうところですが、烈の一本筋の通った苛烈さと気高さを感じさせる、そういう難しい演技を松たか子は難なくこなしています。

このドラマでは檀ふみの演技も素晴らしいのですが、伝説となったこのテレビドラマを振り返って、檀ふみもまた松たか子を激賞しています。

私はこのテレビドラマが日本テレビドラマ史上、最高傑作の一つだと思うのですが、デビュー直後の松たか子にこの大きなチャンスが与えられた、彼女はそれに応えて、作品を傑作にまで高めることで返したのですが、そのチャンスを与えられたのはやはり高麗屋の人脈を無視することはできないでしょう。

 

彼女の芸能作品は十六歳で出演した歌舞伎座での時代劇公演ということになっていますが、実際には幼女の頃、歌舞伎の舞台に出ています。歌舞伎は女人厳禁なのですが、幼児の頃は男も女もないということで、梨園に生まれた女の子も駆り出されることはよくあります。

松本幸四郎家は会話はさかんなのですが、話すことは演技のことばかりということで、そういう家に生まれて、なおかつあらかじめ女であるために歌舞伎役者にはなれないというのはどういうことでしょうか。

演技に興味がないならばそれでおしまいなのでしょうが、演技に興味があるならば、でも自分は歌舞伎役者にはなれないのだともんもんとすることになるでしょう。松たか子のように、もし男であれば当代一の歌舞伎役者になっていたであろう人ならばなおさらです。

梨園の娘で女優になりたい者は新派劇に出るというルートがあります。新派の大看板、初代水谷八重子が歌舞伎役者の十四代目・守田勘彌との間に娘である二代目・水谷八重子をもうけたのが縁で、新派劇は松竹の傘下に入り、歌舞伎役者たちの団体である日本俳優協会(現会長は坂田藤十郎)には新派役者も加わっています。波乃久里子大河ドラマ葵徳川三代」では淀殿の妹でおごうの姉、常高院を演じました)は現在の新派を代表する女優ですが、彼女は2012年に亡くなった十八代目・中村勘三郎の姉にあたります。

松たか子も「無名時代」に新派劇に幾つか出演していますから、女優になる気まんまんだったというわけです。

1994年に放送された大河ドラマ花の乱」は視聴率は伸び悩みました(2013年に「平清盛」がワースト記録を更新するまで歴代最低でした)。応仁の乱というややこしい時代を取り扱ったのが「敗因」のひとつですが、玄人筋には評判がいい作品です。細川勝元を演じた野村萬斎、クールな悪役・日野勝光を演じた草刈正雄、坊主をやらせたら当代一とも言われる一休を演じた奥田瑛二らの演技が特に評判を呼びましたが、歌舞伎界からも多数の役者が出演しています。

足利義政役が十二代目・市川團十郎、その息子、当時は市川新之助を名乗っていた当代の海老蔵足利義政の子役時代を演じています。当代の松本幸四郎酒呑童子役で、山名宗全を演じたのが萬屋錦之介(当代の中村獅童の伯父にあたります)でした。

テレビドラマ初出演作となるこの作品で、松たか子は主役である日野富子の少女時代を演じました(本役は三田佳子)。三田佳子は、大河ドラマは二度目の主演になります。

子役扱いとはいえ、テレビドラマの初役が大河の主演なのですから、松たか子は非常に恵まれたスタートを切ったことになります。この抜擢には高麗屋の後押しがあったと見るのが当然でしょう。

花の乱」は日野富子は実は真の日野富子の身代わりとされた女性という設定で、真の日野富子である森侍者(檀ふみが演じました)が水のような透き通った心の持ち主であるとすれば、入れ替わった日野富子は火のような激しい気性の女性として描かれていて、松たか子が演じるのは、しばらく激しい性格の女性の役が続きます。

その次の作品が「藏」であり、文芸大作というか女優として名刺代わりになるような作品に早くに出会えたのは非常に幸運であって、例えば地方の出の、芸能に何もかかわりのない家の娘が女優になったとして早々にそうした役に恵まれるかと言えばなかなか難しいわけで、高麗屋の看板故に松たか子が恵まれていたのも事実です。

ただし彼女はそのチャンスを活かしきりました。単に合格点をとったというだけではなく、他の誰にも彼女のような演技は出来ないと自らの演技力で嫉妬ややっかみの声を封じ切ったのです。

NHKはこの後、好評につき、宮尾登美子作品の自伝的ドラマを次々にテレビドラマ化し、宮尾登美子の激賞もあって、「春燈」、「櫂」と松たか子は主演しています。特に「春燈」は、「藏」と並ぶ傑作です。機会があればぜひご覧になられることをおすすめします。

松たか子民法のドラマでも視聴率が稼げる女優としてのキャリアを築き、「ロングヴァケーション」「ラブジェネレーション」「HERO」では木村拓哉との共演で非NHK層にも食い込みました。

文芸色の強い作品で玄人筋からも絶賛され、なおかつ商業的な作品でも成功するという、理想的なキャリアを築いたのです。

ここまで順調に行った女優はそうはいませんね。

1996年には大ヒットとなった大河ドラマ「秀吉」に淀殿役で出演しました。気は強いけれども、浅井、織田、そして柴田勝家の養女と敗残の系譜に連なる立場は弱い女性という複雑な陰影のある役を演じて好評でした。

歴代の淀殿役者では、宮沢りえと並んで随一だと思います(宮沢りえ淀殿役で出演した作品は脚本があんまりの出来だったので、彼女は損をしていると思いますが)。

その年の紅白歌合戦では紅組司会者に抜擢され、三冠王沢村賞を同時にとったような、前例のないような成功を収めました。

「藏」の烈役から一直線に並んでいるような、激しくも気高い娘役で、松たか子は天下をとったわけですが、娘と言う年齢でもなくなってくるこれからが、新しい挑戦になるのだろうと思います。

彼女にはシンガーとしてのキャリアがあり、そちらの評価もかなり高いものがあります。とはいえ世間的にはやはり、まずは女優、という印象があるのですが、夫がミュージシャンであるように、音楽方面のキャリアは本人としては大きなウェイトを占めているのかもしれません。

その意味では、「アナと雪の女王」のヒットは、シンガーとしての松たか子の実力を世間に知らしめる好機となりました。ここからまた彼女は新しい松たか子を見せてくれるのでしょう。

 

想・山口百恵

横須賀に行ってきました。小学生の時以来です。鎌倉から東の方はいずれも崖が迫る隘路を抜けて、這いずるようにして電車は進みます。家人の実家のある藤沢から、ふいに思い立って江ノ電横須賀線を乗り継いでの小さな旅でした。

何度乗っても江ノ電が面白いのはまるで日本のミニチュアのような路線だからです。江の島から西の、雑多な町を抜けていく路面も面白いし、鎌倉高校前あたりの海が開ける絶景もその爽快さにいつも絞り出すような息をひとつふたつ落とします。

稲村ケ崎から極楽寺、長谷にかけては、急峻な崖に沿って、まるで山岳鉄道のような趣を呈します。

鎌倉がそうであれば、実は逗子も横須賀もそうです。

市の名前を名乗りながらたぶん、横須賀市でも一番さびれている駅の横須賀駅を降りて、薔薇がここぞとばかりに咲き誇るヴェルニー公園を抜けて、三笠公園まで。そして不入斗の方へとゆっくりと歩いてみました。

横須賀ストーリー」や「タイガー&ドラゴン」をつい口ずさみます。けれどもどぶ板通りから米軍基地を抜ける界隈を歩く時、「横須賀ストーリー」は余りそぐわないような感じがしました。

不入斗のあたりで坂を上って海を見た時、ああ、山口百恵は山の子なんだなと思いました。横須賀と言えば港町で海ですが、海岸沿いの平地を抜ければ、緑豊かなという可愛らしい表現ではとても追いつかない、平家の隠れ里のような険しさが迫ってきます。

小中学生の行動範囲はかなり狭いものです。小中学生を横須賀で生きた彼女にとっては横須賀は汐入あたりのいかにもコスモポリタンな景色とは違う、もっと横溝正史的な土着性に満ちた風景であるはずです。

来て見てよかったと思いました。やはり行かなければわからないことがあるものです。

 

年齢的に、私は山口百恵をリアルタイムで知っている世代ではありません。かろうじて、「ロックンロールウィドウ」あたりが記憶に残っているくらいです。ただ、彼女の楽曲には、母が彼女のシングルとアルバムをすべて集めていたのでレコードを通して親しんでいました。彼女の活動期には家庭用ビデオはまだ普及していませんでしたので、動く彼女、動画として彼女のパフォーマンスを見るようになったのは You Tube 以降のことです。

動画で一番入手しやすかったのは映画作品で、「潮騒」「春琴抄」「古都」あたりは十代の頃に見ました。

山口百恵は、ヒットチャートを争うシングルレコード、独自の世界観を打ち出したアルバムレコード、文芸作品が続いた映画、荒唐無稽なテレビドラマ「赤いシリーズ」、篠山紀信と組んだグラビア、すべてにおいて充実した活動をなし、すべてにおいて傑出した成果を示した人です。

このような人は他にはおそらく沢田研二がいるだけでしょう。80年代に全盛を築いた松田聖子中森明菜にしても、女優としては大きな足跡を残していません。

山口百恵はあらゆる分野で売れた、売れただけではなく、圧倒的な才能を示した人です。しかしながら、敢えて選ぶとすれば、私はまずもって彼女の本質は女優だと思います。

彼女が主演した文芸映画は、他に多くの女優が主演したバージョンがあるのですが、どれをとっても山口百恵が一番説得力があります。スーパースターであったがゆえに、演技をどうのこうのと批評される立場にはなかった山口百恵ですが、後から振り返ってみればその演技の凄味は武者震いがするほどです。

シングルでは彼女はけれんみの強い歌を多く歌いました。唱歌のような王道中の王道ともいうべき「秋桜(コスモス)」のような歌であっても、「王道中の王道を演じる」という変則的な、実はもっともけれんみの強い提示の仕方をしました。

彼女の活動期の後期は、ある意味、日本のミュージックシーンが最も成熟した時代で、演歌はほぼ駆逐され、ベストテンのうち半分以上、あるいは7割以上がニュミュージック系が占めるという様相を呈していました。80年代のアイドル全盛時代は、そこから歌謡曲や演歌が盛り返して作り出した、いわばルネサンス、復興の時代になります。歌謡曲の時代は松田聖子中森明菜がいなければ、もっと早くに終焉していたはずでした。

そのような勢力図の変化を受けて、アイドルたちもニューミュージック寄りにシフトします。70年代は80年代よりもある意味、ずっと洗練されていたのです。

桜田淳子中島みゆきを歌うようには、山口百恵さだまさしを歌いませんでした。さだまさし谷村新司山口百恵に提供した楽曲をセルフカバーしていますが、それらの楽曲は山口百恵が自分のものにしていたのです。

「しあわせ芝居」は桜田淳子の歌というよりは中島みゆきの曲です。しかし「いい日旅立ち」は谷村新司の楽曲である前に山口百恵の歌です。それは単に歌うというだけではない、演じるという要素があったからではないでしょうか。

そこには真に、あらゆるルーツを持つ日本の歌謡曲がニューミュージックをも併呑する、日本の音楽シーンの誕生の萌芽があります。それはいずれ80年代になって、松田聖子を通して具現化してゆくものでした。

話は変わりますが、山口百恵の夫、三浦友和は本当にいい役者になりました。「さよならジュピター」に主演していた頃はこんなにいい役者になるとは想像もできませんでした。彼らの次男、三浦貴大も俳優になっていて、まだ若いながら父親の演技力と母親の存在感を併せ持った、さすがに血のなせる才能を示しています。彼が「徹子の部屋」に出演したとき、まあ、息子というのは余り母親の過去に興味を持たないものですが、彼も通り一遍に母親のことは歌手という印象が強くて云々と言っていた時、黒柳徹子が彼女は女優としても優れていたのよ、女優として評価してほしいというようなことを言っていたのを思い出しました。

黒柳徹子はもちろん「ザ・ベストテン」の司会として、トップアイドルとしての山口百恵のヒットチャートでの戦いぶりを一番知っている人ですが、その彼女が山口百恵はまずは女優というような意味合いのことを言うのは実に興味深いものがあります。

歌は数分間のドラマといいますが、山口百恵はそれを体現した人でした。

(今日はここまで。後日この項目に加筆します)

2014/6/12

同志社に批判的だった勝海舟

勝海舟は1823年に生まれ、45歳の時に明治維新を迎え、1899年、76歳で死去しています。幕末維新の時代を伝える人として、奇跡に近い適役の人ですね。

第一に、幕府でも維新でも高位公職についていて、内実に詳しい。第二に人脈が多岐に及んでいて、ありとあらゆる党派に知人や弟子がいる。第三に話が面白い、当人も話好きであると揃っていて、幕末維新史の参考として、勝海舟政談録である『氷川清話』や、それよりは「素材そのもの」という感じが強いのですが、『海舟座談』は是非とも読んでおくべきでしょう。

これは『氷川清話』の中の有名なエピソードですが、海舟が西郷を龍馬に紹介して、龍馬が西郷を評して言うには「大きく叩けば大きく鳴り小さく叩けば小さく鳴る」と言ったことについて、さすがに龍馬は本質をつかんでいるとして、海舟は「評するも人、評されるも人」と言ったといいます。

海舟はこのように幕末維新の著名人に何らかのつながりがあったのですが、その人脈の中心にいる人が人物評の達人だったのですから、その評を読めば、教科書の記述からはうかがい知れない、人間たちの生き様が浮かび上がってきます。

さて、海舟は明治になってからも明治三十二年まで生きていますね。ただ生きただけではなくて、海軍卿、枢密顧問官として政府中枢においても例のごとく人脈を駆使して調整者的な役割を果たしています。

将来的にこの分野が重要だと思えば、その分野を立ち上げようとしている若者をバックアップして、人脈を提供する、そういう仕事をメインに明治維新後の勝海舟はやっているんですね。

 

同志社の創立者・新島襄勝海舟がサポートしたのは事実です。新島の墓碑の文字は海舟が揮毫していますね。海舟と新島の歳の差はちょうど20歳、若い者に先立たれ続けた海舟の生涯ですが、期待をかけた新島に先立たれたのは、思うところがあったのでしょう。

けれども最晩年には、新島はどうも視野が狭くていかん、みたいなことを言っています。特に、『海舟座談』ではたまたまそういう時期だったのでしょうが、新島と同志社への批判が執拗になされています。

勝海舟はキリスト教を信じはしなかったけれど理解はありましたね。幕府の末期に長崎で耶蘇教信者が幕府に囚われた時には、解放するよう仲介もしていますし、西洋に出た時には積極的に教会にも顔を出していたようです。

息子の嫁もアメリカ人ですし、異教だからどうしたとか、そういう考えは勝にはありませんでした。文化として、社交として、キリスト教文明を尊重したのです。その勝から見れば、仏教や神道に無理解、否定的な新島が視野が狭いように見えたんですね。そういう信念のようなものから、ちょっと一歩引いて見てみろよ、信念の上に大学を建ててもろくなことにはならんぜ、というのが勝の考えですね。

キリスト者である新島には受け入れられないことです。新島はキリスト教をもちろん大真面目に信じています。何かを信じると言うことは何かを否定すると言うことです。

この点、妻の新島八重の方がよほど融通が利いていますね。彼女もまたキリスト者なのですが、晩年は禅宗に傾倒しています。メディアからこのことを聞かれて、「キリスト者が禅の法話を聞いていけないという話がありますか。いいものはいいのです」と返答しています。

和洋折衷の生活態度から徳富蘇峰から「鵺」と呼ばれた新島八重ですが、勝海舟は明らかに「鵺」なるものを評価しています。それはただ単に和洋折衷とかそういう表面的なものだけではなくて、「いいものはいい」という精神的な自由を大切に思っていたからでしょうね。そういう自由な人だからこそ、尊王、攘夷、佐幕、開国と国論が入り乱れる中で一番「まあ、まっとうな道」を提示できたんです。

 

「新島が死んで同志社も大変、でも生きていればもっと大変だっただろう」

とか、

「いったん同志社を潰してそこから新しいものを立ち上げるしかないね」

と言うように、新島の死後、同志社に批判的な立場を強めていった勝ですが、結局、同志社の行く末をたびたび人にたずねて案じています。

これは人的なつながりゆえ、という面もあるでしょうね。

勝海舟はいろんな人に学んでいますが、自分でこれが俺の先生だと言っているのは横井小楠だけですね。横井小楠は肥後熊本藩の人で、越前松平家松平春嶽の政治顧問でした。維新後すぐに小楠は暗殺されるのですが、小楠の長男が横井時雄です。

横井時雄は、山本覚馬の娘・みねの夫です。山本覚馬新島八重の兄ですから、新島家とも同志社ともつながりが深く、後に同志社総長を務めています。

横井家と言うのは面白い家系で、北条得宗家の子孫なんですね。鎌倉時代の末期、新田義貞の軍に追い立てられて、長らく鎌倉幕府の執権として日本を支配していた北条家一門は鎌倉祇園山の奥、東勝寺にて自刃、鎌倉幕府は滅亡します。

北条一門の大半はこの時、滅亡しているのですが、北条一門最後の当主、北条高時の一子・時行のみが生き延びました。唯一生き残った北条時行の生涯も波瀾万丈なのですが、この北条時行の子孫が横井家です。ですからこの家は代々、「時」の字を男子は名乗っているんですね。

横井時雄は一時、伊勢時雄を名乗っていますが、この伊勢は伊勢平氏の伊勢であり、北条氏が平氏であることから、伊勢を名乗っているものと思われます。北条と言えば、鎌倉北条氏と小田原の、いわゆる後北条氏がありますが、北条早雲から始まる後北条氏伊勢平氏であるには違いなく、室町幕府の名門である伊勢氏に後北条氏が端を発しているというのは現代にあっては歴史上の常識です。

横井時雄とその妻みねとの間に生まれた男子・平馬は、母方の実家である山本家の養子となって、武田の軍師・山本勘助の子孫とも言う山本家を継いでいます。山本家は源氏ですが、その跡取りの名が「平馬」というのは、馬はもちろん山本覚馬からつけたのだとして、平は父方の平氏の血統、鎌倉時代以後は言わば平氏本流である北条得宗家の血統であることを示しているのだと思います。

横井時雄は、小楠の息子ですから、勝からすれば師匠の息子さんにあたるわけです。気分的には林家ペー林家こぶ平(現・林家正蔵)を「ぼっちゃん!!!」と呼ぶのと同じでしょう。

勝はそれで晩年にはしきりに横井時雄の動静と同志社の様子を気にしていますね。

 

奇跡の少女漫画家、いくえみ綾の30年

いくえみ綾は主に集英社で仕事をしている漫画家ですが、彼女がかつて受賞した大きな賞ふたつは他社の漫画賞ですね。

2000年『バラ色の明日』で小学館漫画賞(少女漫画部門)を受賞、2009年に『潔く柔く』で講談社漫画賞(少女漫画部門)を受賞しています。業界全体がいくえみ綾を無視できない、少女漫画業界全体のレガシーになっているということですね。

 

いくえみ綾のデビューは1979年、主に短編、読み切りの作品を手がけ、最初にコミックスという形でまとまった形になったのがマーガレットコミックス『初恋の向こう側』(1981年11月)です。

絵柄、デッサンが初期の頃から大幅に変わっている漫画家は多いのですが、多くの場合それは複数の人がアシスタントと言う形で人物デッサンにも関与するために生じる「産業化による変化」であって、オリジナルの絵の中にある尖った部分が丸くなるという形に落ち着いていきます。

いくえみ綾の場合はそれとは逆で、1980年代初頭少女漫画の典型的な、様式的な描線を捨てて、写実的な表現に向かったうえで、それを自分なりに再咀嚼して独自のデフォルメを加えると言う、作画上の自己革新を1990年代中頃に成しています。

「こなれていく」「産業化していく」という意味ではなく、作画の基礎の部分からまったく切り替えてた現役のプロの漫画家は他に類例がありません。

現在のいくえみ綾の作画力は定評がありますが、それ以前の作画についても下手だったわけではありません。1980年代的には主流の描線だったと言っていいでしょう。しかしそれだけに、時代性と密着していて、あの絵柄のままであれば、1990年代以降も現役の作家として活動するのは難しかったかも知れません。

いくえみ綾は特に初期は短編作家としての性格が強かったので、代表作を選びにくいのですが、比較的、長い『POPS』や『彼の手も声も』よりも抜きんでて物語の出来がいいのは『エンゲージ』です。いくえみ綾の作品では、現在連載中の『プリンシパル』でもそうなんですが、恋愛当事者である男女だけでなく、友人関係や恋人をめぐる政治的な思惑が描かれていることが多くて、女子的にはリアルなんでしょうが、読んでいて辛い、そもそも話の本筋からずれてネガティヴな側面ばかりに焦点があてられていることがあります。

『エンゲージ』の場合は、主人公が好きなのは「お隣のお兄さん」であって、年齢差もあり、学校と言う共同体をシェアしている存在ではないので、この男性を好きになると親友の誰それが傷つく(親友もその男性を好きだから)、じゃあ身を引こうとかそういう本筋から離れたごたごたの可能性が最初から排除されているのが物語としてすっきりとしていいですね。

『エンゲージ』の素晴らしさは是非読んでみてください、と言いたいところですが今は絶版になっているようなので、かいつまんで内容を説明します。

主人公A子は高校三年生、おとなりの兄弟、B男とC男は幼馴染になります。B男はもう社会人で、A子はB男が好きなんですが、B男から見ればA子は妹みたいな存在でしかない。その関係がA子とC男では逆にスライドされていて、中三のC男はA子が好きなんだけれども、A子にしてみればC男は弟みたいな存在でしかない。B男はD子という別の女性と婚約するが、それはもちろんA子を絶望に落とす。落とすのだけれどももうどうしようもなく、なんとかこの現実を受け入れようとする中、D子が事故死する。その死は誰にとってもショックではあるのだが、A子にはやはり、ならばこの際、B男はA子に目を向けてくれてもいいのではないかとの思いが生じるのをどうすることも出来ない。純粋に婚約者の死を悲しんでいるB男にとっては、もはや「妹」としてでも自分の痛みをシェアすることが出来ないA子を見て、余裕のない態度をとり、幼馴染でそれぞれに恋愛感情があるというA子、B男、C男の関係は破綻する。A子は故郷の町を進学を機に離れることによって、少女時代のこの関係を清算するのだった。

と言うような、あらためて筋だけを抜きだせば、いかにもいくえみ綾らしいわりあいどろどろとしたお話ですが、紡木たくっぽい、記号的な絵柄で描くとどろどろさが希釈されて提出される印象があります。

紡木たくは漫画家としてはいくえみ綾としては同世代で、デビュー、活躍時期、活動雑誌も同じ作家で、『ホットロード』や『瞬きもせず』は700万部は売ったと言われる大ヒット作品になりました。あれだけの大ヒット作品が今では絶版になっていることにも驚かされますが、80年代少女漫画という大きな枠にあって、いくえみと紡木にまず絵柄という点で共通点があったのは確かです。

仮にいくえみが現在の絵柄で『エンゲージ』を描き直すとすれば、生々しすぎる描写になってしまい、当時のコードからは外れてしまうことになったのではないでしょうか。それはやはりまだ、かずかずの武装を自意識にまとわなければならなかった80年代少女にとっては、手を出すべきではない真実になっていたのではないでしょうか。

逆に言えば、90年代半ばに作画上の自己革命を成し遂げたいくえみは、それまでは描けなかったテーマにも手を出せるようになりました。それによって、同世代の作家である紡木たくらが実質的には引退してゆく21世紀になってから、いくえみの作家としてのピークが訪れることになる、直接の原因になりました。

 

潔く柔く』は単に、いくえみ綾の長年のキャリアにおいても最高傑作というだけではない、少女漫画史全体を通してもひとつの金字塔に相当する作品ですが、そのような作品になったのはあくまで結果でしょう。最初から細部まで構想があったのがどうかは疑問です。

いくえみは基本的に短編作家です。短編と長編では長さが違うと言うだけではない、描き方や焦点の当て方が違ってきます。『潔く柔く』は敢えて言うならば連作短編、という形になりますが、本来はキャラクターたちが密接に関係しあい、最終回に向けて絡み合うような構想ではなかったと思われます。

Aという主人公を描いた物語で、脇役のBを主人公に据えて別の物語を描くと言うような、キャラクター同士には薄い関係性しか想定されていなかったと思われます。

源氏物語の読み方で、紫の上系と玉鬘系に分けるやり方があります。玉鬘系は言わばサブエピソードでこれを全部取り除いても物語の本筋(紫の上系)には影響がない、紫の上系は単体で物語として成立し得る、そういう分類の仕方があるんですね。

その分け方で言うならば、『潔く柔く』の本筋は瀬戸カンナの物語、瀬戸カンナ系のキャラクターたちであって、瀬戸カンナがいわば紫の上に相当します。

玉鬘に相当するのが梶間洋希です。物語の主筋、大団円に向かう話の流れを瀬戸カンナ系が担っているのだとしたら、梶間洋希系は無くても「瀬戸カンナ系の物語」は成立します。

http://www.youtube.com/watch?v=HSiE7oytd4U

 2013年10月26日から東宝系で映画『潔く柔く』が公開されますが、これはもちろん「瀬戸カンナ」の物語であって、漫画潔く柔く』では瀬戸カンナと並ぶ物語の主要キャラクターである梶間洋希は登場もしません。接点がないからです。

漫画潔く柔く』はそもそもの第一話が、教師である梶間洋希に恋心を抱く生徒・森由麻の話であって、最初の主人王であるにもかかわらず、森由麻は以後、登場しません。当初の構想が、より読み切りに近いものであったからでしょう。

「瀬戸カンナ」の物語はそれが物語全体の主軸になったのはあくまで結果論であって、瀬戸カンナの物語が当初の構想を乗っ取ってしまった、そういうことなんだろうと思います。

ともかく、私は漫画は好きで、ジャンルに関わりなくありとあらゆる漫画を読んでいますが、10年代の少女漫画では、第一に『潔く柔く』、第二に吉田秋生の『海街diary』が傑出している、歴史の残る作品だと思います。

それにしても、いくえみ綾にしても吉田秋生にしても既に「大家」のレベルになっていながら、それ以前の彼女らの代表作を上回る、キャリア上の最重要作品を近年になって作り上げているのは感嘆すると言うか、化け物なんじゃないかとも感じます。

 

いくえみ綾が凄いのは絵柄を変えてきた点については既に指摘しましたが、現役の、女子高生の恋愛話をまだ描けるというところもそうですね。年齢で言えばそろそろ50歳近く、お子さんがいるのかどうかは知りませんがお孫さんがいらっしゃっても不思議はないお年ですよね。

そう言う実年齢になって、若い子の惚れたはれたの話を書くというのは結構難しいものです。時代も違えば意識も違う、小道具も違ってきます。恋愛感情それ自体は普遍的なものかも知れませんが、その表れ方は時代によって違ってきます。

年金はどうなるのかしら、節約術の本とか読んでみようかしらというようなことが最大の関心事になっている年代にとって、若い時の惚れたはれたの話はあまりにも遠い話です。

だから恋愛を書くにしてもキャラクターの年齢層を上げる、あるいは歴史物とか異次元物に舞台を設定して、徹頭徹尾、フィクションとして描く、だんだんとそうせざるを得なくなっていくんですね。

大御所が歴史物に手を出しがちなのは、今の若い人のリアルを描けなくなってくるからです。

いくえみ綾は取材もしているのでしょうけれど、いつまでも同じポジションにとどまっていられるのはすごいですね。

憂鬱な渡鬼~大河ドラマ『おんな太閤記』を観返す

橋田壽賀子は、大河ドラマは3本脚本を担当しています。『おんな太閤記』『いのち』『春日局』です。いずれもヒットしましたが、中でも『おんな太閤記』は大河ドラマとして前後と比較しても大ヒットして、まだ『おしん』を書いていなかった橋田にとっては代表作となった作品でした。

この作品は1981年に放送されたのですが、その2年前、1979年に放送された『草燃える』とこの作品は似ているところがあります。喜劇調に描かれながら、史実が陰惨そのものであるためにどんどん暗くなってゆく、登場人物がどんどん死んでゆくところです。

西田敏行は大河の常連ですが、この大河以前では『花神』で山県有朋を演じています。大きな役としては、山県有朋役が最初になるのですが(それ以前に北条義時を演じていますが、平家が題材の大河ドラマでの北条義時ですから、後半の小さな役です)、会津出身である西田が、長州閥の巨魁である山県を演じることに抵抗があったと後に述べています。西田は役の幅が広い俳優ですが、大河で最初に演じたのが一番、陰険度の高い山県役であったことは注視すべきでしょう。

『おんな太閤記』では秀吉役に抜擢されて、池中玄太80キロっぽい演技で秀吉を好演し、妻のねね(佐久間良子)を「おかか」と呼んで、流行語になりました。

豊臣秀吉役ですね、どの時代の秀吉を切り取るかに拠るのですが、全体の雰囲気としては『天地人』の笹野高史が演じた秀吉が一番それっぽいと私は思います。『おんな太閤記』の秀吉は魅力的すぎますね。

『おんな太閤記』は橋田壽賀子脚本ですから、いわゆる橋田ファミリーが多く出演しています。事実として踏まえておかなければならないのは、『おんな太閤記』は橋田脚本のテレビドラマとしては最初の大ヒット作品だということです。いかにも、な面々が多いのですが、『おしん』も『渡る世間は鬼ばかり』も書かれていない当時、手垢がついている感じはありませんでした。

大政所なかが赤木春恵、朝日姫が泉ピン子、日秀尼ともが長山藍子蜂須賀小六前田吟、えなりかずきはまだ生まれていません。

このドラマはホームドラマとして太閤記を描くことに主眼があり、この場合、ホームとは豊臣家の人々なのですから、豊臣家の人々をこれほど丁寧に描いた大河ドラマは他にはありません。

豊臣家がなまじ天下をとったばかりに、豊臣家の面々がことごとく不幸になってゆく、その転落ぶりはすさまじいほどです。

副田甚兵衛と朝日の悲劇はよく知られていますが、ここで副田甚兵衛を演じるのがせんだみつお、朝日が泉ピン子と言うのが、かえって普通の田舎夫婦が天下の論理で引き裂かれてゆく感があって、絶妙な配役ですね。

朝日は母のなかと共に、百姓原理主義的な見方をする人、家族みんな元気で野良仕事に精を出すのが一番の幸福という考えの人なんですね。そういう彼女にとって秀吉は既にある幸福を危うくするギャンブル好きの兄様でしかない。副田甚兵衛は秀吉の股肱の家臣で、この兄様についていけば間違いない、妻にも良い着物を着せてやれると考える、これもまた素朴な向上心のある男です。

「あんな口八丁でまかせばかり言う兄様に関わってたらろくなことにはならん。尾張で百姓をやろう」

と言う朝日に対し、

「そんなこと無理にきまっとるよ。末は大名にしてくれるって兄様も言ってるんだからついていけばいいがね」

と甚兵衛は考える。しかし結局、朝日は離縁を強いられて徳川家康の継室にされるのです。

秀吉の姉のともは素直に弟の出世を祝っていますね。両親を同じくする姉ですから、史実でも姉弟仲は良かったのでしょう。彼女は乗り気でない夫の尻を叩いて、さむらいとして出世しろとせかします。彼女は母なか、妹の朝日とは考え方が違いますね。秀吉を一族の出世頭とみなして、秀吉をてこにして、一族郎党飛躍を遂げようと言う野心があります。

しかし彼女も大きな悲劇に見舞われます。

長男、秀次の切腹、秀次の子らもことごとく処刑されます。

彼女の子孫のうち、そして豊臣家の血統のうちで唯一生き残るのは、ともの次男・羽柴秀勝(小吉秀勝)がおごうとの間に産んだ豊臣完子だけです。

大坂の陣の夜、炎上する大坂を遠い空の下に見ながら、生き残った豊臣家の人々、ねね、とも(日秀尼)、副田甚兵衛、年寄三名が京都の高台院で寄り添う、その姿を見ていると、本当に人にとって幸福はなんなのか、考えさせられますね。

朝ドラは震災をどう描いたか~『あまちゃん』と『甘辛しゃん』

1995年1月17日、私はその日、朝6時頃に起きて、いつも通り『めざましテレビ』を見ていると、大阪で地震があったと伝えていましたが、震度が5程度だったので、大したことないと私も思い、テレビの中でも芸能ニュースなどをいつも通りやっていました。

昼食を食べない私は、それから夕方までずっと家に籠って書き物をしていました。19時頃にテレビをつけて、仰天しました。

同じ日本に住んでいても、自分の家の近くでなければそんなものです。2011年3月11日のあの日、私は東京の都心にいました。地震の直後、奇跡的に母から携帯に電話があったのですが、もう毎日遊んでいてもいい年齢の母はお友達と昼から宴会中で、お友達を相手に私をネタにして冗談を言っているのを聞いて、怒鳴ってしまいました。

こちらも大変な状況でしたから。その大変さはまだ母がいたところでは伝わっていなかったようです。後から、あそこまでの惨状とは思いもしなかったと泣いて謝ってきましたが、いや東京はそこまでではないからとばつが悪い思いで言い訳しつつも、湾岸のあたりは道路がうねっていたり液状化で家が傾いていたり、相当な被害でした。東北の被害がすさまじかったので相対的に被害が小さく見えただけです。

 

大好評のうちに終わった朝ドラ『あまちゃん』ですが、東日本大震災を描く、言及する最初の連続ドラマということで、あの震災をどう描くかが話題になっていました。みなさんがごらんになったように、かなり抑えた、寓話的な描写になっていました。

キスシーンで花火が上がる往年のハリウッド映画のように、象徴的に描いて、後は察してくださいという感じ、登場人物の誰も死んでいない、被害にもほとんど触れられていないその描き方は、少し、逃げ、を感じました。

もちろん、そう書かざるを得ないというのは理解できます。あの地震を正面から描けば、『あまちゃん』は地震の話になっていたでしょう。アイドルの話でもなく、海女さんの話でもなく、北三陸の話でもなく、それらをすべて飲み込む津波のように、地震の話になっていたでしょう。

そう、あの津波のように。

1万8000人を越える死者行方不明者にはそれぞれの物語があったはずです。恋愛物語もあれば、ホームコメディもあり、スポーツドラマもあったはずです。その無数の物語をあの津波は押し流してしまいました。

そうするのかな、と思っていました。

中学生の時に、平和授業でアニメーション映画『はだしのゲン』を観ました。ものすごいトラウマになったのですが、原爆前までの話は普通に少年の物語として面白く、キャラクターは魅力的でした。私は物語に引き込まれていました。その物語を原爆は断ち切りました。だからこそ断ち切られた無数の物語のとうとさ、それが失われた痛みを私は感じたのです。

あまちゃん』はそのように描くのかなと思っていましたが、そうではありませんでした。『あまちゃん』は寓話性を維持したまま、終わりました。

それがいいとか悪いとかはいいません。その判断は私にはつきませんが、やはりあのものすごい惨状を目の当たりにして、なおかつ寓話性を維持できるのは、ちょっとした呑み込み難い嘘を感じます。

そしてそのことに、フィクションでさえまだ私たちにはあの過去と対峙する力が無いのだと思い知らされたことで、なおのことあの惨状が余りにも大きなものであったことを認識させられました。

あまちゃん』の寓話性をそのままの形で終わらせたかったならばどうして東北を、北三陸を舞台に選んだのでしょう。伊勢でも良かったのではないでしょうか。もちろん、伊勢が舞台では「復興支援」になりません。復興に力を尽くす人々の「希望の物語」にはなりません。それでも、核心の部分をあえて避けたことで、いじめや教師内のハラスメントなど学校が抱えるあらゆる問題にほうっかむりをしながら式典の答辞だけは立派な校長先生の弁のように、むなしい思いを感じずにはいられません。

あまちゃん』を批判しているみたいになっていますね。これは批判とはちょっと違うものです。伏線をすべて回収してゆく手法は大したものですし、現在、日本で一番長いドラマである朝ドラで、まったくだれることなく視聴者の興味を維持した宮藤さんの手腕は評判通りのものです。当代を代表する脚本家ですね。

あまちゃん』の物語としての凄さを解説する記事はこれからもたくさん書かれるでしょうし、実際、称賛に値します。

私はこの物語が、天野アキという等身大の少女を剥き身のまま描くのではなく、寓話性というフィルターを通すことでしか、この物語の持つ数々の魅力、能天気さやキャラクターの面白さが描けなかったということに、あの震災を経験した者の一人として、あの震災以前の何がしらを取り返せない、そういう思いを抱いているのです。

あまちゃん』は日常を描いているようで、寓話性が強いお話です。今日、東京で個人タクシーをやっていて、月30万円の利益を出すのはかなり難しいでしょう。世田谷にあのマンションを購入して、年収が400万円に満たないのでは、結構生活が厳しいはず、個人芸能事務所を自宅に立ち上げるにしても、あんなに大きなデスクや応接セットはいきなり買えないはずです。

北鉄の給料だとか、休漁期の海女さんの生活保障とか、そういうことが私はすごく気になります。仕事は無いと言いながら、ストーブさんは観光協会にすんなりと就職していますし、観光協会の収支はどうなっているのでしょうか。田舎であの職は、公務員とか農協職員並の垂涎の的だと思うのですが。

ストーブさんはどうも大学には行っていないみたいですし、ユイちゃんは高校中退ですし、お父さんは田舎の学校の先生なら立場が無いんじゃないでしょうか。まして市長に選ばれるなんて、ちょっと考えにくいです(そう言えば平泉成さんは前作『純と愛』に続いての朝ドラ出演ですね)。

生活、のことを考えたら、『あまちゃん』はあんまり生活のことを考えて描いているようには見えません。だから寓話的、なのです。それがいいか悪いか。

いい面もあるでしょうし、悪い面もあるでしょう。

私の見方が変なのかも知れませんが、すごく気になった場面がありました。ひとつは、アキが歌いながら駅のホームで足を上げてリズムをとるところで、ホームの座席に靴を履いたまま乗っていたこと。

非常にお行儀が悪い。悪いのですが、これが意図的か無作為なのか、判断が迷うところです。アキの父親は細かいのですが、母親の春子は元スケバンなので、こういうことできちんとしていなかったとしてもありそうだからです。こういうことはちっちゃなことですが、イスラム教徒が豚肉を食べられないように幼少期に刷り込まれたことは、些細なことでも決して逸脱出来ないものです。

天野アキが野生児っぽい、良いことばで言えばおおらかに育てられているので、「ちっちゃなことは気にしない」のかも知れませんが、ヒロインに対する好感をわざわざ危機にさらすような真似をするでしょうか。

あと、電車(ではなくてディーゼル車、大吉さんの台詞を借りれば、レールの上を走るバス)の窓から大きく身を乗り出す場面が何度かあった点です。ものすごく危ないです。車掌さんはあそこは叱るべきでしょう。

リアリズムは細部に宿りますから、『あまちゃん』は決してリアリズムのドラマではありません。座席を土足で踏みつける行為も「元気がいい」という符号、電車の窓から身を乗り出す行為も「駆け寄りたい気持ち」を表す符号、行為と意味が現実からずらされているという点でも『寓話的』なお話でした。

 

1997年から翌年にかけて、NHK朝の連続テレビ小説は『甘辛しゃん』を放送しました。朝ドラはだいたい東京と大阪で持ち回りで制作されていますが、大雑把に言って大阪放送制作作品の方が出来が悪いです。例外もあります。『ふたりっ子』『あすか』『ちりとてちん』『カーネーション』はしっかりとした作品でしたが、『やんちゃくれ』みたいなのを作っているようならどうしようもありません。『純と愛』は試みは買いたいですね。でも朝には見たくないですね(私は録画して夜、見ているのですが)。

『甘辛しゃん』は大阪制作としてはわりあい出来がいい方ですが、その分、いつもの笑いの要素が無く(主人公の夫は落語家であるにも関わらず)、ひたすら暗いドラマです。暗いと言うと言葉が悪いですね。落ち着いたドラマです。

主人公は母子家庭で、母親役の樋口可南子がいい演技でした。あんな人と結婚できたらいいなあと思わせる演技、糸井重里が羨ましいです。で、母親が灘の作り酒屋に住み込み家政婦として働きに出るのですが、そこで若旦那と恋仲になって後妻に収まる、主人公と坊っちゃんは義理の姉弟になるのですが、主人公と坊っちゃんがねんごろになって、禁断の恋、どうしようという話になります。

血がつながっていないんだから結婚すればいいのに、と思いますが、世代的にはベビーブーム世代なんですね。当時はそう簡単にいかなかったのかも知れません。

で、坊っちゃんは出奔、主人公が造り酒屋を継いで、何十年かぶりに坊っちゃんが実家に戻ってきたところで、阪神大震災、家屋倒壊で坊っちゃん死亡、そういう話でした。

あの廃墟ぶりがやたら生々しくリアルだったため、視聴者も震災を味わった感じがしました。震災被害者の方はセカンドレイプというか、トラウマがよみがえる思いがしたのではないでしょうか。

 

やはりそういうことを踏まえると、東日本大震災は、まだ早い、のかも知れませんね。

芸名の話

先日、80年代女性アイドルを1位から16位まで順序付けて並べてみたのですが、なんとなく見えてきたものがありました。ご当人やファンに方には申し訳ないのですが、私は当時から浅香唯があんまり好きではなかった、何か気に入らない感じがありました。

スケバン刑事Ⅲ』もとびとびでしか見ていません。好き嫌いというか、好みはもちろん私にもあったのですが、故なく気に入らないということはあんまりないので、なぜ今一つ浅香唯が気に入らないのだろうとおりおりに考えてきました。

そしてアイドルたちを並べてみて気づいたのですが、名前が嫌いなんだと分かりました。浅香唯、漢字三文字、どれをとっても可愛らしい感じです。そのあざとさ。今は唯なんて珍しくもない名前でしょうが、当時はマンガマンガした名前で、『3年奇面組』のヒロインの名前が河川唯(かわゆい)でした。もっと言えばソープ嬢の源氏名みたいでした。

80年代女性アイドル16人のうち芸名を名乗っていたのは4人、松田聖子(蒲地法子)、柏原芳恵(本名は同じ漢字で読みが「かしはらよしえ」)、本田美奈子(工藤美奈子)、そして浅香唯(川崎亜紀)です。意外と少ないですね。

松田聖子は初出演したドラマの役名をそのまま流用したようですね。有名な日本企業のブランド、MAZDA-SEIKO をもじったという説もありますがそれは後付けの説のようです。どちらにせよ、蒲池という姓は難読ですし、音のイメージもアイドル向きではありません。本名が芸能人向きではないので芸名を名乗ったのでしょう。

柏原芳恵も十中八九、「かしわばら」と発音されるでしょうから、それならば先にそうしておきましょうという、難読系ゆえの芸名です。

本田美奈子は工藤美奈子で何の問題もないようにも思いますが、これは同期に工藤夕貴がいて工藤が先行して売れていたために名前が被らないようにとの配慮があったそうです。姓は同じでも名前が違えばもちろん別の名前なのですが、工藤(夕)、工藤(美)と表記する必要が場合によっては考えられるので、避けておいた方が無難という判断だったようです。

芸名と言っても、上記三人はそれぞれ事情があって、しかも柏原芳恵と本田美奈子は本名に近い名前を名乗っています。

浅香唯の場合は、それらから比べると実にあざとい、そういう感じがします。ほら、かわいいだろう、おまえらこんな名前が好きなんだろう、と足元を見られているような気がします。

でも彼女の場合、それで成功したんですから、売り方としては正解だったんでしょうね。

 

今は滅多に芸名をつけない、つける場合は Gackt とか、マキダイとか、それって人間の名前ですかというレベルにまでいじってくることが多いようです。

けれどもそれも痛しかゆしで、本名だからと言って、先に似た名前の人がいる場合は変えて欲しいですよね。

岩崎宏美岩崎ひろみとか。ただ、ふたりっ子の方の岩崎ひろみさんをフォローすれば、彼女が登場した頃は、思秋期の岩崎さんは確か益田宏美さんと名乗っていたはずです。これも本名だからと言って、結婚したからと言って屋号を改名するのもなんだかなと思います。荒井由美松任谷由実とか。離婚したらどうするんでしょうか。

ユーミンさんは八王子でぶいぶい言わせている荒井と言う商家の苗字が嫌で嫌でしょうがなかったそうで、松任谷ってノーブルな感じがして素敵と思ったそうなのですが、松任谷という姓も商家の姓ですね。松任と言うのは加賀の町で、柴田勝家が滅ぼされた後、恩賞で前田利長に与えられた領地です。その松任の商家だから松任屋、屋が谷に転じて松任谷、です。

ま、それはどうでもいいんですが、ノーブルで言うなら岩崎宏美さんが一時名乗っていた益田という姓は正真正銘のノーブルです。三井の大番頭、益田鈍翁の子孫ですから。岩崎宏美は三菱の岩崎家とは関係が無いでしょうが、「岩崎」さんが三井の大番頭の一族に嫁ぐと言うのもなかなか奇縁ですね。ちなみに、三菱の岩崎家と遠縁にあたるのは中島みゆきさんです。

岩崎宏美は嫁いだ家が大層な家だったので、それで嫁ぎ先の姓に改めたのでしょうか。何か圧迫があったのでしょうか。

益田宏美であった時期、嫁姑売りという不思議な売り方を益田宏美はしていました。一家に有名芸能人がいれば、兄弟姉妹がつてでデビューするということはわりあいあるんですね。

岩崎宏美岩崎良美中森明菜中森明穂松本伊代松本伊代姉、石野真子石野陽子いしのようこ)、斉藤由貴斉藤隆治松本隆が原作・監督を務めた映画『微熱少年』に主演)、中山美穂中山忍

でも嫁のつてで姑を売り出すという例は今のところ、益田宏美しかありません。菊池桃子と五月みどりも一時期、セット出演をしていたことがありましたが、彼女らの場合はそれぞれで独立した知名度がありますから。

そう言う事情もあって、岩崎ひろみが出て来た頃は岩崎宏美は益田宏美だったので、情状の余地がありますが、ややこしいには違いないので、やっぱり後から出てきた方が名前を変えておくべきでしょう。

竹下総理の孫のDAIGOとメンタリストDaiGoも相当にややこしいですが、これだけややこしいならDAIGO1号、DAIGO2号と名乗って欲しいです。