想・山口百恵

横須賀に行ってきました。小学生の時以来です。鎌倉から東の方はいずれも崖が迫る隘路を抜けて、這いずるようにして電車は進みます。家人の実家のある藤沢から、ふいに思い立って江ノ電横須賀線を乗り継いでの小さな旅でした。

何度乗っても江ノ電が面白いのはまるで日本のミニチュアのような路線だからです。江の島から西の、雑多な町を抜けていく路面も面白いし、鎌倉高校前あたりの海が開ける絶景もその爽快さにいつも絞り出すような息をひとつふたつ落とします。

稲村ケ崎から極楽寺、長谷にかけては、急峻な崖に沿って、まるで山岳鉄道のような趣を呈します。

鎌倉がそうであれば、実は逗子も横須賀もそうです。

市の名前を名乗りながらたぶん、横須賀市でも一番さびれている駅の横須賀駅を降りて、薔薇がここぞとばかりに咲き誇るヴェルニー公園を抜けて、三笠公園まで。そして不入斗の方へとゆっくりと歩いてみました。

横須賀ストーリー」や「タイガー&ドラゴン」をつい口ずさみます。けれどもどぶ板通りから米軍基地を抜ける界隈を歩く時、「横須賀ストーリー」は余りそぐわないような感じがしました。

不入斗のあたりで坂を上って海を見た時、ああ、山口百恵は山の子なんだなと思いました。横須賀と言えば港町で海ですが、海岸沿いの平地を抜ければ、緑豊かなという可愛らしい表現ではとても追いつかない、平家の隠れ里のような険しさが迫ってきます。

小中学生の行動範囲はかなり狭いものです。小中学生を横須賀で生きた彼女にとっては横須賀は汐入あたりのいかにもコスモポリタンな景色とは違う、もっと横溝正史的な土着性に満ちた風景であるはずです。

来て見てよかったと思いました。やはり行かなければわからないことがあるものです。

 

年齢的に、私は山口百恵をリアルタイムで知っている世代ではありません。かろうじて、「ロックンロールウィドウ」あたりが記憶に残っているくらいです。ただ、彼女の楽曲には、母が彼女のシングルとアルバムをすべて集めていたのでレコードを通して親しんでいました。彼女の活動期には家庭用ビデオはまだ普及していませんでしたので、動く彼女、動画として彼女のパフォーマンスを見るようになったのは You Tube 以降のことです。

動画で一番入手しやすかったのは映画作品で、「潮騒」「春琴抄」「古都」あたりは十代の頃に見ました。

山口百恵は、ヒットチャートを争うシングルレコード、独自の世界観を打ち出したアルバムレコード、文芸作品が続いた映画、荒唐無稽なテレビドラマ「赤いシリーズ」、篠山紀信と組んだグラビア、すべてにおいて充実した活動をなし、すべてにおいて傑出した成果を示した人です。

このような人は他にはおそらく沢田研二がいるだけでしょう。80年代に全盛を築いた松田聖子中森明菜にしても、女優としては大きな足跡を残していません。

山口百恵はあらゆる分野で売れた、売れただけではなく、圧倒的な才能を示した人です。しかしながら、敢えて選ぶとすれば、私はまずもって彼女の本質は女優だと思います。

彼女が主演した文芸映画は、他に多くの女優が主演したバージョンがあるのですが、どれをとっても山口百恵が一番説得力があります。スーパースターであったがゆえに、演技をどうのこうのと批評される立場にはなかった山口百恵ですが、後から振り返ってみればその演技の凄味は武者震いがするほどです。

シングルでは彼女はけれんみの強い歌を多く歌いました。唱歌のような王道中の王道ともいうべき「秋桜(コスモス)」のような歌であっても、「王道中の王道を演じる」という変則的な、実はもっともけれんみの強い提示の仕方をしました。

彼女の活動期の後期は、ある意味、日本のミュージックシーンが最も成熟した時代で、演歌はほぼ駆逐され、ベストテンのうち半分以上、あるいは7割以上がニュミュージック系が占めるという様相を呈していました。80年代のアイドル全盛時代は、そこから歌謡曲や演歌が盛り返して作り出した、いわばルネサンス、復興の時代になります。歌謡曲の時代は松田聖子中森明菜がいなければ、もっと早くに終焉していたはずでした。

そのような勢力図の変化を受けて、アイドルたちもニューミュージック寄りにシフトします。70年代は80年代よりもある意味、ずっと洗練されていたのです。

桜田淳子中島みゆきを歌うようには、山口百恵さだまさしを歌いませんでした。さだまさし谷村新司山口百恵に提供した楽曲をセルフカバーしていますが、それらの楽曲は山口百恵が自分のものにしていたのです。

「しあわせ芝居」は桜田淳子の歌というよりは中島みゆきの曲です。しかし「いい日旅立ち」は谷村新司の楽曲である前に山口百恵の歌です。それは単に歌うというだけではない、演じるという要素があったからではないでしょうか。

そこには真に、あらゆるルーツを持つ日本の歌謡曲がニューミュージックをも併呑する、日本の音楽シーンの誕生の萌芽があります。それはいずれ80年代になって、松田聖子を通して具現化してゆくものでした。

話は変わりますが、山口百恵の夫、三浦友和は本当にいい役者になりました。「さよならジュピター」に主演していた頃はこんなにいい役者になるとは想像もできませんでした。彼らの次男、三浦貴大も俳優になっていて、まだ若いながら父親の演技力と母親の存在感を併せ持った、さすがに血のなせる才能を示しています。彼が「徹子の部屋」に出演したとき、まあ、息子というのは余り母親の過去に興味を持たないものですが、彼も通り一遍に母親のことは歌手という印象が強くて云々と言っていた時、黒柳徹子が彼女は女優としても優れていたのよ、女優として評価してほしいというようなことを言っていたのを思い出しました。

黒柳徹子はもちろん「ザ・ベストテン」の司会として、トップアイドルとしての山口百恵のヒットチャートでの戦いぶりを一番知っている人ですが、その彼女が山口百恵はまずは女優というような意味合いのことを言うのは実に興味深いものがあります。

歌は数分間のドラマといいますが、山口百恵はそれを体現した人でした。

(今日はここまで。後日この項目に加筆します)

2014/6/12

同志社に批判的だった勝海舟

勝海舟は1823年に生まれ、45歳の時に明治維新を迎え、1899年、76歳で死去しています。幕末維新の時代を伝える人として、奇跡に近い適役の人ですね。

第一に、幕府でも維新でも高位公職についていて、内実に詳しい。第二に人脈が多岐に及んでいて、ありとあらゆる党派に知人や弟子がいる。第三に話が面白い、当人も話好きであると揃っていて、幕末維新史の参考として、勝海舟政談録である『氷川清話』や、それよりは「素材そのもの」という感じが強いのですが、『海舟座談』は是非とも読んでおくべきでしょう。

これは『氷川清話』の中の有名なエピソードですが、海舟が西郷を龍馬に紹介して、龍馬が西郷を評して言うには「大きく叩けば大きく鳴り小さく叩けば小さく鳴る」と言ったことについて、さすがに龍馬は本質をつかんでいるとして、海舟は「評するも人、評されるも人」と言ったといいます。

海舟はこのように幕末維新の著名人に何らかのつながりがあったのですが、その人脈の中心にいる人が人物評の達人だったのですから、その評を読めば、教科書の記述からはうかがい知れない、人間たちの生き様が浮かび上がってきます。

さて、海舟は明治になってからも明治三十二年まで生きていますね。ただ生きただけではなくて、海軍卿、枢密顧問官として政府中枢においても例のごとく人脈を駆使して調整者的な役割を果たしています。

将来的にこの分野が重要だと思えば、その分野を立ち上げようとしている若者をバックアップして、人脈を提供する、そういう仕事をメインに明治維新後の勝海舟はやっているんですね。

 

同志社の創立者・新島襄勝海舟がサポートしたのは事実です。新島の墓碑の文字は海舟が揮毫していますね。海舟と新島の歳の差はちょうど20歳、若い者に先立たれ続けた海舟の生涯ですが、期待をかけた新島に先立たれたのは、思うところがあったのでしょう。

けれども最晩年には、新島はどうも視野が狭くていかん、みたいなことを言っています。特に、『海舟座談』ではたまたまそういう時期だったのでしょうが、新島と同志社への批判が執拗になされています。

勝海舟はキリスト教を信じはしなかったけれど理解はありましたね。幕府の末期に長崎で耶蘇教信者が幕府に囚われた時には、解放するよう仲介もしていますし、西洋に出た時には積極的に教会にも顔を出していたようです。

息子の嫁もアメリカ人ですし、異教だからどうしたとか、そういう考えは勝にはありませんでした。文化として、社交として、キリスト教文明を尊重したのです。その勝から見れば、仏教や神道に無理解、否定的な新島が視野が狭いように見えたんですね。そういう信念のようなものから、ちょっと一歩引いて見てみろよ、信念の上に大学を建ててもろくなことにはならんぜ、というのが勝の考えですね。

キリスト者である新島には受け入れられないことです。新島はキリスト教をもちろん大真面目に信じています。何かを信じると言うことは何かを否定すると言うことです。

この点、妻の新島八重の方がよほど融通が利いていますね。彼女もまたキリスト者なのですが、晩年は禅宗に傾倒しています。メディアからこのことを聞かれて、「キリスト者が禅の法話を聞いていけないという話がありますか。いいものはいいのです」と返答しています。

和洋折衷の生活態度から徳富蘇峰から「鵺」と呼ばれた新島八重ですが、勝海舟は明らかに「鵺」なるものを評価しています。それはただ単に和洋折衷とかそういう表面的なものだけではなくて、「いいものはいい」という精神的な自由を大切に思っていたからでしょうね。そういう自由な人だからこそ、尊王、攘夷、佐幕、開国と国論が入り乱れる中で一番「まあ、まっとうな道」を提示できたんです。

 

「新島が死んで同志社も大変、でも生きていればもっと大変だっただろう」

とか、

「いったん同志社を潰してそこから新しいものを立ち上げるしかないね」

と言うように、新島の死後、同志社に批判的な立場を強めていった勝ですが、結局、同志社の行く末をたびたび人にたずねて案じています。

これは人的なつながりゆえ、という面もあるでしょうね。

勝海舟はいろんな人に学んでいますが、自分でこれが俺の先生だと言っているのは横井小楠だけですね。横井小楠は肥後熊本藩の人で、越前松平家松平春嶽の政治顧問でした。維新後すぐに小楠は暗殺されるのですが、小楠の長男が横井時雄です。

横井時雄は、山本覚馬の娘・みねの夫です。山本覚馬新島八重の兄ですから、新島家とも同志社ともつながりが深く、後に同志社総長を務めています。

横井家と言うのは面白い家系で、北条得宗家の子孫なんですね。鎌倉時代の末期、新田義貞の軍に追い立てられて、長らく鎌倉幕府の執権として日本を支配していた北条家一門は鎌倉祇園山の奥、東勝寺にて自刃、鎌倉幕府は滅亡します。

北条一門の大半はこの時、滅亡しているのですが、北条一門最後の当主、北条高時の一子・時行のみが生き延びました。唯一生き残った北条時行の生涯も波瀾万丈なのですが、この北条時行の子孫が横井家です。ですからこの家は代々、「時」の字を男子は名乗っているんですね。

横井時雄は一時、伊勢時雄を名乗っていますが、この伊勢は伊勢平氏の伊勢であり、北条氏が平氏であることから、伊勢を名乗っているものと思われます。北条と言えば、鎌倉北条氏と小田原の、いわゆる後北条氏がありますが、北条早雲から始まる後北条氏伊勢平氏であるには違いなく、室町幕府の名門である伊勢氏に後北条氏が端を発しているというのは現代にあっては歴史上の常識です。

横井時雄とその妻みねとの間に生まれた男子・平馬は、母方の実家である山本家の養子となって、武田の軍師・山本勘助の子孫とも言う山本家を継いでいます。山本家は源氏ですが、その跡取りの名が「平馬」というのは、馬はもちろん山本覚馬からつけたのだとして、平は父方の平氏の血統、鎌倉時代以後は言わば平氏本流である北条得宗家の血統であることを示しているのだと思います。

横井時雄は、小楠の息子ですから、勝からすれば師匠の息子さんにあたるわけです。気分的には林家ペー林家こぶ平(現・林家正蔵)を「ぼっちゃん!!!」と呼ぶのと同じでしょう。

勝はそれで晩年にはしきりに横井時雄の動静と同志社の様子を気にしていますね。

 

奇跡の少女漫画家、いくえみ綾の30年

いくえみ綾は主に集英社で仕事をしている漫画家ですが、彼女がかつて受賞した大きな賞ふたつは他社の漫画賞ですね。

2000年『バラ色の明日』で小学館漫画賞(少女漫画部門)を受賞、2009年に『潔く柔く』で講談社漫画賞(少女漫画部門)を受賞しています。業界全体がいくえみ綾を無視できない、少女漫画業界全体のレガシーになっているということですね。

 

いくえみ綾のデビューは1979年、主に短編、読み切りの作品を手がけ、最初にコミックスという形でまとまった形になったのがマーガレットコミックス『初恋の向こう側』(1981年11月)です。

絵柄、デッサンが初期の頃から大幅に変わっている漫画家は多いのですが、多くの場合それは複数の人がアシスタントと言う形で人物デッサンにも関与するために生じる「産業化による変化」であって、オリジナルの絵の中にある尖った部分が丸くなるという形に落ち着いていきます。

いくえみ綾の場合はそれとは逆で、1980年代初頭少女漫画の典型的な、様式的な描線を捨てて、写実的な表現に向かったうえで、それを自分なりに再咀嚼して独自のデフォルメを加えると言う、作画上の自己革新を1990年代中頃に成しています。

「こなれていく」「産業化していく」という意味ではなく、作画の基礎の部分からまったく切り替えてた現役のプロの漫画家は他に類例がありません。

現在のいくえみ綾の作画力は定評がありますが、それ以前の作画についても下手だったわけではありません。1980年代的には主流の描線だったと言っていいでしょう。しかしそれだけに、時代性と密着していて、あの絵柄のままであれば、1990年代以降も現役の作家として活動するのは難しかったかも知れません。

いくえみ綾は特に初期は短編作家としての性格が強かったので、代表作を選びにくいのですが、比較的、長い『POPS』や『彼の手も声も』よりも抜きんでて物語の出来がいいのは『エンゲージ』です。いくえみ綾の作品では、現在連載中の『プリンシパル』でもそうなんですが、恋愛当事者である男女だけでなく、友人関係や恋人をめぐる政治的な思惑が描かれていることが多くて、女子的にはリアルなんでしょうが、読んでいて辛い、そもそも話の本筋からずれてネガティヴな側面ばかりに焦点があてられていることがあります。

『エンゲージ』の場合は、主人公が好きなのは「お隣のお兄さん」であって、年齢差もあり、学校と言う共同体をシェアしている存在ではないので、この男性を好きになると親友の誰それが傷つく(親友もその男性を好きだから)、じゃあ身を引こうとかそういう本筋から離れたごたごたの可能性が最初から排除されているのが物語としてすっきりとしていいですね。

『エンゲージ』の素晴らしさは是非読んでみてください、と言いたいところですが今は絶版になっているようなので、かいつまんで内容を説明します。

主人公A子は高校三年生、おとなりの兄弟、B男とC男は幼馴染になります。B男はもう社会人で、A子はB男が好きなんですが、B男から見ればA子は妹みたいな存在でしかない。その関係がA子とC男では逆にスライドされていて、中三のC男はA子が好きなんだけれども、A子にしてみればC男は弟みたいな存在でしかない。B男はD子という別の女性と婚約するが、それはもちろんA子を絶望に落とす。落とすのだけれどももうどうしようもなく、なんとかこの現実を受け入れようとする中、D子が事故死する。その死は誰にとってもショックではあるのだが、A子にはやはり、ならばこの際、B男はA子に目を向けてくれてもいいのではないかとの思いが生じるのをどうすることも出来ない。純粋に婚約者の死を悲しんでいるB男にとっては、もはや「妹」としてでも自分の痛みをシェアすることが出来ないA子を見て、余裕のない態度をとり、幼馴染でそれぞれに恋愛感情があるというA子、B男、C男の関係は破綻する。A子は故郷の町を進学を機に離れることによって、少女時代のこの関係を清算するのだった。

と言うような、あらためて筋だけを抜きだせば、いかにもいくえみ綾らしいわりあいどろどろとしたお話ですが、紡木たくっぽい、記号的な絵柄で描くとどろどろさが希釈されて提出される印象があります。

紡木たくは漫画家としてはいくえみ綾としては同世代で、デビュー、活躍時期、活動雑誌も同じ作家で、『ホットロード』や『瞬きもせず』は700万部は売ったと言われる大ヒット作品になりました。あれだけの大ヒット作品が今では絶版になっていることにも驚かされますが、80年代少女漫画という大きな枠にあって、いくえみと紡木にまず絵柄という点で共通点があったのは確かです。

仮にいくえみが現在の絵柄で『エンゲージ』を描き直すとすれば、生々しすぎる描写になってしまい、当時のコードからは外れてしまうことになったのではないでしょうか。それはやはりまだ、かずかずの武装を自意識にまとわなければならなかった80年代少女にとっては、手を出すべきではない真実になっていたのではないでしょうか。

逆に言えば、90年代半ばに作画上の自己革命を成し遂げたいくえみは、それまでは描けなかったテーマにも手を出せるようになりました。それによって、同世代の作家である紡木たくらが実質的には引退してゆく21世紀になってから、いくえみの作家としてのピークが訪れることになる、直接の原因になりました。

 

潔く柔く』は単に、いくえみ綾の長年のキャリアにおいても最高傑作というだけではない、少女漫画史全体を通してもひとつの金字塔に相当する作品ですが、そのような作品になったのはあくまで結果でしょう。最初から細部まで構想があったのがどうかは疑問です。

いくえみは基本的に短編作家です。短編と長編では長さが違うと言うだけではない、描き方や焦点の当て方が違ってきます。『潔く柔く』は敢えて言うならば連作短編、という形になりますが、本来はキャラクターたちが密接に関係しあい、最終回に向けて絡み合うような構想ではなかったと思われます。

Aという主人公を描いた物語で、脇役のBを主人公に据えて別の物語を描くと言うような、キャラクター同士には薄い関係性しか想定されていなかったと思われます。

源氏物語の読み方で、紫の上系と玉鬘系に分けるやり方があります。玉鬘系は言わばサブエピソードでこれを全部取り除いても物語の本筋(紫の上系)には影響がない、紫の上系は単体で物語として成立し得る、そういう分類の仕方があるんですね。

その分け方で言うならば、『潔く柔く』の本筋は瀬戸カンナの物語、瀬戸カンナ系のキャラクターたちであって、瀬戸カンナがいわば紫の上に相当します。

玉鬘に相当するのが梶間洋希です。物語の主筋、大団円に向かう話の流れを瀬戸カンナ系が担っているのだとしたら、梶間洋希系は無くても「瀬戸カンナ系の物語」は成立します。

http://www.youtube.com/watch?v=HSiE7oytd4U

 2013年10月26日から東宝系で映画『潔く柔く』が公開されますが、これはもちろん「瀬戸カンナ」の物語であって、漫画潔く柔く』では瀬戸カンナと並ぶ物語の主要キャラクターである梶間洋希は登場もしません。接点がないからです。

漫画潔く柔く』はそもそもの第一話が、教師である梶間洋希に恋心を抱く生徒・森由麻の話であって、最初の主人王であるにもかかわらず、森由麻は以後、登場しません。当初の構想が、より読み切りに近いものであったからでしょう。

「瀬戸カンナ」の物語はそれが物語全体の主軸になったのはあくまで結果論であって、瀬戸カンナの物語が当初の構想を乗っ取ってしまった、そういうことなんだろうと思います。

ともかく、私は漫画は好きで、ジャンルに関わりなくありとあらゆる漫画を読んでいますが、10年代の少女漫画では、第一に『潔く柔く』、第二に吉田秋生の『海街diary』が傑出している、歴史の残る作品だと思います。

それにしても、いくえみ綾にしても吉田秋生にしても既に「大家」のレベルになっていながら、それ以前の彼女らの代表作を上回る、キャリア上の最重要作品を近年になって作り上げているのは感嘆すると言うか、化け物なんじゃないかとも感じます。

 

いくえみ綾が凄いのは絵柄を変えてきた点については既に指摘しましたが、現役の、女子高生の恋愛話をまだ描けるというところもそうですね。年齢で言えばそろそろ50歳近く、お子さんがいるのかどうかは知りませんがお孫さんがいらっしゃっても不思議はないお年ですよね。

そう言う実年齢になって、若い子の惚れたはれたの話を書くというのは結構難しいものです。時代も違えば意識も違う、小道具も違ってきます。恋愛感情それ自体は普遍的なものかも知れませんが、その表れ方は時代によって違ってきます。

年金はどうなるのかしら、節約術の本とか読んでみようかしらというようなことが最大の関心事になっている年代にとって、若い時の惚れたはれたの話はあまりにも遠い話です。

だから恋愛を書くにしてもキャラクターの年齢層を上げる、あるいは歴史物とか異次元物に舞台を設定して、徹頭徹尾、フィクションとして描く、だんだんとそうせざるを得なくなっていくんですね。

大御所が歴史物に手を出しがちなのは、今の若い人のリアルを描けなくなってくるからです。

いくえみ綾は取材もしているのでしょうけれど、いつまでも同じポジションにとどまっていられるのはすごいですね。

憂鬱な渡鬼~大河ドラマ『おんな太閤記』を観返す

橋田壽賀子は、大河ドラマは3本脚本を担当しています。『おんな太閤記』『いのち』『春日局』です。いずれもヒットしましたが、中でも『おんな太閤記』は大河ドラマとして前後と比較しても大ヒットして、まだ『おしん』を書いていなかった橋田にとっては代表作となった作品でした。

この作品は1981年に放送されたのですが、その2年前、1979年に放送された『草燃える』とこの作品は似ているところがあります。喜劇調に描かれながら、史実が陰惨そのものであるためにどんどん暗くなってゆく、登場人物がどんどん死んでゆくところです。

西田敏行は大河の常連ですが、この大河以前では『花神』で山県有朋を演じています。大きな役としては、山県有朋役が最初になるのですが(それ以前に北条義時を演じていますが、平家が題材の大河ドラマでの北条義時ですから、後半の小さな役です)、会津出身である西田が、長州閥の巨魁である山県を演じることに抵抗があったと後に述べています。西田は役の幅が広い俳優ですが、大河で最初に演じたのが一番、陰険度の高い山県役であったことは注視すべきでしょう。

『おんな太閤記』では秀吉役に抜擢されて、池中玄太80キロっぽい演技で秀吉を好演し、妻のねね(佐久間良子)を「おかか」と呼んで、流行語になりました。

豊臣秀吉役ですね、どの時代の秀吉を切り取るかに拠るのですが、全体の雰囲気としては『天地人』の笹野高史が演じた秀吉が一番それっぽいと私は思います。『おんな太閤記』の秀吉は魅力的すぎますね。

『おんな太閤記』は橋田壽賀子脚本ですから、いわゆる橋田ファミリーが多く出演しています。事実として踏まえておかなければならないのは、『おんな太閤記』は橋田脚本のテレビドラマとしては最初の大ヒット作品だということです。いかにも、な面々が多いのですが、『おしん』も『渡る世間は鬼ばかり』も書かれていない当時、手垢がついている感じはありませんでした。

大政所なかが赤木春恵、朝日姫が泉ピン子、日秀尼ともが長山藍子蜂須賀小六前田吟、えなりかずきはまだ生まれていません。

このドラマはホームドラマとして太閤記を描くことに主眼があり、この場合、ホームとは豊臣家の人々なのですから、豊臣家の人々をこれほど丁寧に描いた大河ドラマは他にはありません。

豊臣家がなまじ天下をとったばかりに、豊臣家の面々がことごとく不幸になってゆく、その転落ぶりはすさまじいほどです。

副田甚兵衛と朝日の悲劇はよく知られていますが、ここで副田甚兵衛を演じるのがせんだみつお、朝日が泉ピン子と言うのが、かえって普通の田舎夫婦が天下の論理で引き裂かれてゆく感があって、絶妙な配役ですね。

朝日は母のなかと共に、百姓原理主義的な見方をする人、家族みんな元気で野良仕事に精を出すのが一番の幸福という考えの人なんですね。そういう彼女にとって秀吉は既にある幸福を危うくするギャンブル好きの兄様でしかない。副田甚兵衛は秀吉の股肱の家臣で、この兄様についていけば間違いない、妻にも良い着物を着せてやれると考える、これもまた素朴な向上心のある男です。

「あんな口八丁でまかせばかり言う兄様に関わってたらろくなことにはならん。尾張で百姓をやろう」

と言う朝日に対し、

「そんなこと無理にきまっとるよ。末は大名にしてくれるって兄様も言ってるんだからついていけばいいがね」

と甚兵衛は考える。しかし結局、朝日は離縁を強いられて徳川家康の継室にされるのです。

秀吉の姉のともは素直に弟の出世を祝っていますね。両親を同じくする姉ですから、史実でも姉弟仲は良かったのでしょう。彼女は乗り気でない夫の尻を叩いて、さむらいとして出世しろとせかします。彼女は母なか、妹の朝日とは考え方が違いますね。秀吉を一族の出世頭とみなして、秀吉をてこにして、一族郎党飛躍を遂げようと言う野心があります。

しかし彼女も大きな悲劇に見舞われます。

長男、秀次の切腹、秀次の子らもことごとく処刑されます。

彼女の子孫のうち、そして豊臣家の血統のうちで唯一生き残るのは、ともの次男・羽柴秀勝(小吉秀勝)がおごうとの間に産んだ豊臣完子だけです。

大坂の陣の夜、炎上する大坂を遠い空の下に見ながら、生き残った豊臣家の人々、ねね、とも(日秀尼)、副田甚兵衛、年寄三名が京都の高台院で寄り添う、その姿を見ていると、本当に人にとって幸福はなんなのか、考えさせられますね。

朝ドラは震災をどう描いたか~『あまちゃん』と『甘辛しゃん』

1995年1月17日、私はその日、朝6時頃に起きて、いつも通り『めざましテレビ』を見ていると、大阪で地震があったと伝えていましたが、震度が5程度だったので、大したことないと私も思い、テレビの中でも芸能ニュースなどをいつも通りやっていました。

昼食を食べない私は、それから夕方までずっと家に籠って書き物をしていました。19時頃にテレビをつけて、仰天しました。

同じ日本に住んでいても、自分の家の近くでなければそんなものです。2011年3月11日のあの日、私は東京の都心にいました。地震の直後、奇跡的に母から携帯に電話があったのですが、もう毎日遊んでいてもいい年齢の母はお友達と昼から宴会中で、お友達を相手に私をネタにして冗談を言っているのを聞いて、怒鳴ってしまいました。

こちらも大変な状況でしたから。その大変さはまだ母がいたところでは伝わっていなかったようです。後から、あそこまでの惨状とは思いもしなかったと泣いて謝ってきましたが、いや東京はそこまでではないからとばつが悪い思いで言い訳しつつも、湾岸のあたりは道路がうねっていたり液状化で家が傾いていたり、相当な被害でした。東北の被害がすさまじかったので相対的に被害が小さく見えただけです。

 

大好評のうちに終わった朝ドラ『あまちゃん』ですが、東日本大震災を描く、言及する最初の連続ドラマということで、あの震災をどう描くかが話題になっていました。みなさんがごらんになったように、かなり抑えた、寓話的な描写になっていました。

キスシーンで花火が上がる往年のハリウッド映画のように、象徴的に描いて、後は察してくださいという感じ、登場人物の誰も死んでいない、被害にもほとんど触れられていないその描き方は、少し、逃げ、を感じました。

もちろん、そう書かざるを得ないというのは理解できます。あの地震を正面から描けば、『あまちゃん』は地震の話になっていたでしょう。アイドルの話でもなく、海女さんの話でもなく、北三陸の話でもなく、それらをすべて飲み込む津波のように、地震の話になっていたでしょう。

そう、あの津波のように。

1万8000人を越える死者行方不明者にはそれぞれの物語があったはずです。恋愛物語もあれば、ホームコメディもあり、スポーツドラマもあったはずです。その無数の物語をあの津波は押し流してしまいました。

そうするのかな、と思っていました。

中学生の時に、平和授業でアニメーション映画『はだしのゲン』を観ました。ものすごいトラウマになったのですが、原爆前までの話は普通に少年の物語として面白く、キャラクターは魅力的でした。私は物語に引き込まれていました。その物語を原爆は断ち切りました。だからこそ断ち切られた無数の物語のとうとさ、それが失われた痛みを私は感じたのです。

あまちゃん』はそのように描くのかなと思っていましたが、そうではありませんでした。『あまちゃん』は寓話性を維持したまま、終わりました。

それがいいとか悪いとかはいいません。その判断は私にはつきませんが、やはりあのものすごい惨状を目の当たりにして、なおかつ寓話性を維持できるのは、ちょっとした呑み込み難い嘘を感じます。

そしてそのことに、フィクションでさえまだ私たちにはあの過去と対峙する力が無いのだと思い知らされたことで、なおのことあの惨状が余りにも大きなものであったことを認識させられました。

あまちゃん』の寓話性をそのままの形で終わらせたかったならばどうして東北を、北三陸を舞台に選んだのでしょう。伊勢でも良かったのではないでしょうか。もちろん、伊勢が舞台では「復興支援」になりません。復興に力を尽くす人々の「希望の物語」にはなりません。それでも、核心の部分をあえて避けたことで、いじめや教師内のハラスメントなど学校が抱えるあらゆる問題にほうっかむりをしながら式典の答辞だけは立派な校長先生の弁のように、むなしい思いを感じずにはいられません。

あまちゃん』を批判しているみたいになっていますね。これは批判とはちょっと違うものです。伏線をすべて回収してゆく手法は大したものですし、現在、日本で一番長いドラマである朝ドラで、まったくだれることなく視聴者の興味を維持した宮藤さんの手腕は評判通りのものです。当代を代表する脚本家ですね。

あまちゃん』の物語としての凄さを解説する記事はこれからもたくさん書かれるでしょうし、実際、称賛に値します。

私はこの物語が、天野アキという等身大の少女を剥き身のまま描くのではなく、寓話性というフィルターを通すことでしか、この物語の持つ数々の魅力、能天気さやキャラクターの面白さが描けなかったということに、あの震災を経験した者の一人として、あの震災以前の何がしらを取り返せない、そういう思いを抱いているのです。

あまちゃん』は日常を描いているようで、寓話性が強いお話です。今日、東京で個人タクシーをやっていて、月30万円の利益を出すのはかなり難しいでしょう。世田谷にあのマンションを購入して、年収が400万円に満たないのでは、結構生活が厳しいはず、個人芸能事務所を自宅に立ち上げるにしても、あんなに大きなデスクや応接セットはいきなり買えないはずです。

北鉄の給料だとか、休漁期の海女さんの生活保障とか、そういうことが私はすごく気になります。仕事は無いと言いながら、ストーブさんは観光協会にすんなりと就職していますし、観光協会の収支はどうなっているのでしょうか。田舎であの職は、公務員とか農協職員並の垂涎の的だと思うのですが。

ストーブさんはどうも大学には行っていないみたいですし、ユイちゃんは高校中退ですし、お父さんは田舎の学校の先生なら立場が無いんじゃないでしょうか。まして市長に選ばれるなんて、ちょっと考えにくいです(そう言えば平泉成さんは前作『純と愛』に続いての朝ドラ出演ですね)。

生活、のことを考えたら、『あまちゃん』はあんまり生活のことを考えて描いているようには見えません。だから寓話的、なのです。それがいいか悪いか。

いい面もあるでしょうし、悪い面もあるでしょう。

私の見方が変なのかも知れませんが、すごく気になった場面がありました。ひとつは、アキが歌いながら駅のホームで足を上げてリズムをとるところで、ホームの座席に靴を履いたまま乗っていたこと。

非常にお行儀が悪い。悪いのですが、これが意図的か無作為なのか、判断が迷うところです。アキの父親は細かいのですが、母親の春子は元スケバンなので、こういうことできちんとしていなかったとしてもありそうだからです。こういうことはちっちゃなことですが、イスラム教徒が豚肉を食べられないように幼少期に刷り込まれたことは、些細なことでも決して逸脱出来ないものです。

天野アキが野生児っぽい、良いことばで言えばおおらかに育てられているので、「ちっちゃなことは気にしない」のかも知れませんが、ヒロインに対する好感をわざわざ危機にさらすような真似をするでしょうか。

あと、電車(ではなくてディーゼル車、大吉さんの台詞を借りれば、レールの上を走るバス)の窓から大きく身を乗り出す場面が何度かあった点です。ものすごく危ないです。車掌さんはあそこは叱るべきでしょう。

リアリズムは細部に宿りますから、『あまちゃん』は決してリアリズムのドラマではありません。座席を土足で踏みつける行為も「元気がいい」という符号、電車の窓から身を乗り出す行為も「駆け寄りたい気持ち」を表す符号、行為と意味が現実からずらされているという点でも『寓話的』なお話でした。

 

1997年から翌年にかけて、NHK朝の連続テレビ小説は『甘辛しゃん』を放送しました。朝ドラはだいたい東京と大阪で持ち回りで制作されていますが、大雑把に言って大阪放送制作作品の方が出来が悪いです。例外もあります。『ふたりっ子』『あすか』『ちりとてちん』『カーネーション』はしっかりとした作品でしたが、『やんちゃくれ』みたいなのを作っているようならどうしようもありません。『純と愛』は試みは買いたいですね。でも朝には見たくないですね(私は録画して夜、見ているのですが)。

『甘辛しゃん』は大阪制作としてはわりあい出来がいい方ですが、その分、いつもの笑いの要素が無く(主人公の夫は落語家であるにも関わらず)、ひたすら暗いドラマです。暗いと言うと言葉が悪いですね。落ち着いたドラマです。

主人公は母子家庭で、母親役の樋口可南子がいい演技でした。あんな人と結婚できたらいいなあと思わせる演技、糸井重里が羨ましいです。で、母親が灘の作り酒屋に住み込み家政婦として働きに出るのですが、そこで若旦那と恋仲になって後妻に収まる、主人公と坊っちゃんは義理の姉弟になるのですが、主人公と坊っちゃんがねんごろになって、禁断の恋、どうしようという話になります。

血がつながっていないんだから結婚すればいいのに、と思いますが、世代的にはベビーブーム世代なんですね。当時はそう簡単にいかなかったのかも知れません。

で、坊っちゃんは出奔、主人公が造り酒屋を継いで、何十年かぶりに坊っちゃんが実家に戻ってきたところで、阪神大震災、家屋倒壊で坊っちゃん死亡、そういう話でした。

あの廃墟ぶりがやたら生々しくリアルだったため、視聴者も震災を味わった感じがしました。震災被害者の方はセカンドレイプというか、トラウマがよみがえる思いがしたのではないでしょうか。

 

やはりそういうことを踏まえると、東日本大震災は、まだ早い、のかも知れませんね。

芸名の話

先日、80年代女性アイドルを1位から16位まで順序付けて並べてみたのですが、なんとなく見えてきたものがありました。ご当人やファンに方には申し訳ないのですが、私は当時から浅香唯があんまり好きではなかった、何か気に入らない感じがありました。

スケバン刑事Ⅲ』もとびとびでしか見ていません。好き嫌いというか、好みはもちろん私にもあったのですが、故なく気に入らないということはあんまりないので、なぜ今一つ浅香唯が気に入らないのだろうとおりおりに考えてきました。

そしてアイドルたちを並べてみて気づいたのですが、名前が嫌いなんだと分かりました。浅香唯、漢字三文字、どれをとっても可愛らしい感じです。そのあざとさ。今は唯なんて珍しくもない名前でしょうが、当時はマンガマンガした名前で、『3年奇面組』のヒロインの名前が河川唯(かわゆい)でした。もっと言えばソープ嬢の源氏名みたいでした。

80年代女性アイドル16人のうち芸名を名乗っていたのは4人、松田聖子(蒲地法子)、柏原芳恵(本名は同じ漢字で読みが「かしはらよしえ」)、本田美奈子(工藤美奈子)、そして浅香唯(川崎亜紀)です。意外と少ないですね。

松田聖子は初出演したドラマの役名をそのまま流用したようですね。有名な日本企業のブランド、MAZDA-SEIKO をもじったという説もありますがそれは後付けの説のようです。どちらにせよ、蒲池という姓は難読ですし、音のイメージもアイドル向きではありません。本名が芸能人向きではないので芸名を名乗ったのでしょう。

柏原芳恵も十中八九、「かしわばら」と発音されるでしょうから、それならば先にそうしておきましょうという、難読系ゆえの芸名です。

本田美奈子は工藤美奈子で何の問題もないようにも思いますが、これは同期に工藤夕貴がいて工藤が先行して売れていたために名前が被らないようにとの配慮があったそうです。姓は同じでも名前が違えばもちろん別の名前なのですが、工藤(夕)、工藤(美)と表記する必要が場合によっては考えられるので、避けておいた方が無難という判断だったようです。

芸名と言っても、上記三人はそれぞれ事情があって、しかも柏原芳恵と本田美奈子は本名に近い名前を名乗っています。

浅香唯の場合は、それらから比べると実にあざとい、そういう感じがします。ほら、かわいいだろう、おまえらこんな名前が好きなんだろう、と足元を見られているような気がします。

でも彼女の場合、それで成功したんですから、売り方としては正解だったんでしょうね。

 

今は滅多に芸名をつけない、つける場合は Gackt とか、マキダイとか、それって人間の名前ですかというレベルにまでいじってくることが多いようです。

けれどもそれも痛しかゆしで、本名だからと言って、先に似た名前の人がいる場合は変えて欲しいですよね。

岩崎宏美岩崎ひろみとか。ただ、ふたりっ子の方の岩崎ひろみさんをフォローすれば、彼女が登場した頃は、思秋期の岩崎さんは確か益田宏美さんと名乗っていたはずです。これも本名だからと言って、結婚したからと言って屋号を改名するのもなんだかなと思います。荒井由美松任谷由実とか。離婚したらどうするんでしょうか。

ユーミンさんは八王子でぶいぶい言わせている荒井と言う商家の苗字が嫌で嫌でしょうがなかったそうで、松任谷ってノーブルな感じがして素敵と思ったそうなのですが、松任谷という姓も商家の姓ですね。松任と言うのは加賀の町で、柴田勝家が滅ぼされた後、恩賞で前田利長に与えられた領地です。その松任の商家だから松任屋、屋が谷に転じて松任谷、です。

ま、それはどうでもいいんですが、ノーブルで言うなら岩崎宏美さんが一時名乗っていた益田という姓は正真正銘のノーブルです。三井の大番頭、益田鈍翁の子孫ですから。岩崎宏美は三菱の岩崎家とは関係が無いでしょうが、「岩崎」さんが三井の大番頭の一族に嫁ぐと言うのもなかなか奇縁ですね。ちなみに、三菱の岩崎家と遠縁にあたるのは中島みゆきさんです。

岩崎宏美は嫁いだ家が大層な家だったので、それで嫁ぎ先の姓に改めたのでしょうか。何か圧迫があったのでしょうか。

益田宏美であった時期、嫁姑売りという不思議な売り方を益田宏美はしていました。一家に有名芸能人がいれば、兄弟姉妹がつてでデビューするということはわりあいあるんですね。

岩崎宏美岩崎良美中森明菜中森明穂松本伊代松本伊代姉、石野真子石野陽子いしのようこ)、斉藤由貴斉藤隆治松本隆が原作・監督を務めた映画『微熱少年』に主演)、中山美穂中山忍

でも嫁のつてで姑を売り出すという例は今のところ、益田宏美しかありません。菊池桃子と五月みどりも一時期、セット出演をしていたことがありましたが、彼女らの場合はそれぞれで独立した知名度がありますから。

そう言う事情もあって、岩崎ひろみが出て来た頃は岩崎宏美は益田宏美だったので、情状の余地がありますが、ややこしいには違いないので、やっぱり後から出てきた方が名前を変えておくべきでしょう。

竹下総理の孫のDAIGOとメンタリストDaiGoも相当にややこしいですが、これだけややこしいならDAIGO1号、DAIGO2号と名乗って欲しいです。

 

マスダ80年代女性アイドル論~斉藤由貴論

 

人生山あり谷ありと申しますが、浮き沈みの激しい芸能界、これまで取り上げたトップアイドル5人ですが、プレミアム感を維持しながら、それぞれに生き残っているのはさすがです。80年代に小話のネタで「ミナミノヨウコとミナミダヨウコ、一字違いで大違い」というのがありました。南田洋子さんは若い時は大変な美人女優で、当時も上品な美しい人ですから、この言い方はずいぶん失礼だったのですが、まあ若い人からすればおばさんには違いない、敢えて南野陽子と比較すれば、それは南野陽子の方が当時としては全然いいわけです。でも考えてみれば当時の南田洋子の年齢と、今の南野陽子の年齢はそうものすごく違うというわけでもない。それでいて、今でもテレビのバラエティに出てくれば、「あのアイドル、ナンノちゃんが来てくれました!」みたいなハレの日感を維持していますね。

これは80年代女性アイドルに限った話ではなく、80年代に登場した/有力になった人物、フォーマットは未だに影響力があります。例えばお笑い界で言えば、60年代のクレイジーキャッツ、70年代のドリフターズ萩本欽一はそれぞれ続く10年では息切れしていましたが、お笑いBIG3は未だにお笑いBIG3です。これと似たような現象が、80年代についてはありとあらゆる分野について見られます。

もちろんそうは言っても、人そのものは年齢を重ねてゆくわけですから、80年代トップアイドルたちもそれぞれ見せ方を変えてきています。一貫してアイドルである松田聖子でさえ、もう聖子ちゃんカットにはしてくれません。デビュー当初の松田聖子はとてもキュートでしたが、映画『野菊の墓』で前髪を上げた時、キュートさがびっくりするくらい無かった、彼女にとって前髪がものすごく重要であることを多くの人が認識したのですが、結婚以後、どういうわけか彼女はかたくなに前髪をオールバックにしていますね。

そういう小さなことから、歌唱スタイルをまったく変えてきた中森明菜に至るまで、プレミアム感を維持したトップ芸能人という立場は同じでもその内容は違う、そういう変遷をそれぞれに辿っています。

しかしほとんどアプローチの仕方が変わっていない人もいて、斉藤由貴がそうです。

彼女の場合は路線変更や、あれこれ小ネタを仕込む必要もないほど、順調だった、彼女の人生の行事に合わせて、芸能界の仕事がいいように流れて行った、だから流れに身を任せれば良かった、そういう特に恵まれた境遇にあるのが見てとれます。

アイドルとしてはもちろん、芸能人として斉藤由貴ほど恵まれた立場にある人はそうはいません。もちろん、アイドルとして彼女よりも成功した人たちはいるのですが、その人たちから見てさえ、斉藤由貴の境遇は出来れば替わって欲しいものでしょう。これまで取り上げてきた5人のアイドルと斉藤由貴のうち、事務所を移ったことがないことがないのは小泉今日子斉藤由貴だけです。聖子も明菜も、薬師丸も南野も、それぞれに苦闘と逆境がありました。小泉は天下のバーニングプロダクションの、郷ひろみと並ぶ最古参タレントのひとりとして安定した立場にありますが、その立場は結果であって、トップアイドルに上り詰めて維持するためには試行錯誤のセルフプロデュースを試みなければなりませんでした。斉藤由貴のみ、ただ流れに乗っているだけで、他の人が垂涎するような仕事に恵まれて、その流れがずっと維持されています。

「自分は人間関係では子供の時からずっと不器用で苦労しているけれども、こと仕事に関しては順調だった。運動神経もあんまりよくないので『スケバン刑事』の仕事の時はあんまり乗り気じゃなかったけれど、その仕事も好調で視聴率もよかった。あんまりこの仕事はしたくないというのがないので、来る仕事をそのままこなしていたら、思う以上にいい結果が出て、それがずっと続いている感じです」

斉藤由貴は述べています。

ただし、単に流れに身を任せているだけではなくて、彼女の場合は結果を出しています。来る仕事来る仕事をホームランで打ち返している、だから次につながっているのです。こと彼女に関しては、東宝芸能と言う事務所がマネージメントが的確だったのは確かでしょうが、無理やり事務所がねじこんだタレントではなくて、確実に結果を残してきたから順調であったのです。結果として彼女のタレントとしての個性と、東宝芸能と言う事務所の芸能界での立ち位置がマッチしたとは言えますが、彼女以外のアイドルが東宝芸能のマネージメントを受けても同じような結果を残せたはずがありません。一方で、やはり他の芸能事務所では斉藤由貴と言う才能を活用しきれなかったでしょう。

 

斉藤由貴が恵まれたアイドルであるのは間違いありません。恵まれていると言うのは、女優としていい流れで仕事がサジェストされてきた、歌手として楽曲の水準が高かったという点においてです。そして最初からずっと順調でした。斉藤由貴もデビューが遅いアイドルで、高校三年生の時から芸能活動を開始していますが、1984年春に東宝シンデレラオーディションで準グランプリに選出されたのが芸能界入りのきっかけです。よく、ミズマガジンコンテストグランプリから彼女の経歴が書かれることが多いのですが、ミスマガジン東宝シンデレラオーディションの後です。そういう経緯から彼女は東宝のタレントであるわけです。

東宝は言うまでもなく、大手映画会社の一画を占め、現在は業績においては圧倒的に日本でトップの映画会社です(ただしそれはTOHOシネマズなどの映画館チェーンが好調だからですが)。それだけではなく阪急東宝財閥の中核企業であり、宝塚歌劇団をグループ内に抱えています。マネージメント業務を担当する東宝芸能は、数ある芸能事務所の中でも、一番安定していると言えるでしょう。

東宝シンデレラオーディションは、東宝が久しぶりにスター発掘のために開催したオーディションで、第一回のグランプリが沢口靖子、準グランプリが斉藤由貴でした。彼女たちは今では東宝の顔になっています。東宝のマネージメントはある意味、タレントの自主性を重んじる傾向もあるのですが、東宝シンデレラオーディション出身者、特に第一回の出身者である沢口と斉藤については社運をかけているという面もあって、脇をがっちりとサポートして、手塩にかけて育てた、本格派を目指させた、ありとあらゆるチャンスを与えた、そういう感じです。

沢口はデビュー作が、当時、東宝の看板映画だった『刑事物語』の三作目、続く二作目がやはり東宝の看板作品である『ゴジラ』です。沢口は『ゴジラビオランテ』にも出演していますから堂々たるゴジラ女優ですが、こういう売り出し方がアイドル売りの王道とはかけ離れていることは言うまでもないでしょう。沢口や斉藤は、学生、もしくはついこのあいだまで学生だったのですから、学園ものを演じさせればそれなりにはまったはずですが、「身近な経験から演技を構築してゆく」のではない、物語そのものからキャラクターを構築してゆく演技を最初から要求されています。そういう演技が難しいのかどうなのか、演技の資質がある人にとってはかえってやりやすいのではないかと思いますが、そうではない人にとっては真夜中に霧の中を進むようなものでしょう。とにかく、日常の「女の子」から演技を積み重ねてゆくような、私小説的なアプローチを封じたわけで、これは斉藤由貴についても同様です。

斉藤由貴のドラマ初出演作は『野球狂の詩』で、その次が『スケバン刑事』です。いずれも東宝制作ではありませんが、非日常的と言う点では、十分に非日常的なお話から斉藤は演技をスタートさせています。

 

斉藤の芸能活動の開始は1984年からですが、高校三年生であったこの年、彼女は神奈川の県立高校に在学していたので、大きな活動はありませんでした。ミスマガジンでマガジンの表紙を飾ったのと、伝説的なCM『青春という名のラーメン』に出演したくらいです。続く1985年の1月に月曜ドラマランド枠で『野球狂の詩』が放送され、2月にファーストシングル『卒業』が発売されました。

『卒業』が発売された時には、斉藤由貴はもうかなり話題になっていたので、『卒業』はいきなりベストテン入りして、最高6位までチャート順位を上げています。デビュー曲がベストテン入りしたアイドルは既に映画女優として実績のあった薬師丸ひろ子原田知世おニャン子の流れでデビューした工藤静香を除けば、「80年代女性アイドル格付 」ベストテンの中では斉藤由貴だけです。

そして1985年4月から『スケバン刑事』の放送が始まります。

 

ここで彼女の異端性について触れておきましょう。ご存じのとおり、彼女は信仰心がある人です。現代日本では信仰・信心があること自体が異端で、それも仏教系・神道系ではなく、外来のキリスト教を信仰しているのは異端の中の異端、更にキリスト教の中でも、末日聖徒イエス・キリスト教会モルモン教)の信者であることは異端です。キリスト教系新宗教派の中でも、その教義や戒律において異端性が特に濃厚なセクトです。エホバの証人統一教会と比較しても、特に異端性が強いと私は見ているのですが、最近はあたりが緩やかになっているのでしょうか。2012年のアメリカ大統領選挙で、共和党の候補にモルモン教徒であるロムニー氏が選ばれたのは意外でした。現在キリスト教においては、全体がリベラル色を強める中、保守回帰の宗派に転向する人も増えています。イギリスでカトリックに転向する人、中南米でカトリックから更に原理主義的な新教系原理主義に転向する人、そういう例もかなり見られます。教皇フランシスコが先日、同性愛を容認する方向についに踏み込みましたが、カトリックからキリスト教原理主義に転向する人も増えるかも知れません。

そういう中でモルモン教も異端であるがゆえに、より濃厚な保守主義を維持したい人たちの受け皿として浮かび上がっているのかも知れません。

斉藤由貴は宗教においても特に異端性が強いセクトの信者であるわけですから、どうしても異端性を自覚して生きてこなければならなかったはずです。それが彼女に他の少女とはまるで違う、ゆらぎのような魅力を与えています。それは純粋さ、純潔さであるように見えますが、要は世界観のずれ、であるわけです。西洋人がジャポニズムに感じたような世界観のずれから生じる「発見」「新感覚の体験」、斉藤由貴はそうした未知の体験を触れる者に与えるのです。

彼女が社会において異端であることを踏まえれば、彼女がある意味において「生きづらい」のも当然なのですが、それでいて彼女は信仰そのものを相対化するようなゆらぎをも抱えています。彼女が単純に敬虔な信者というならば、二度に及んだ不倫など出来るはずがないのです。彼女自身はその不倫を正当化はしていません。そういう意味では信仰を維持しているのは確かですし、その行為があったからと言って「魔性の女」扱いするのは不適当ですが、それほど信仰する宗教の中にあってさえ、時にやむにやまれぬ衝動に突き動かされる、異端性を彼女は持っているということなのです。

そのセクトの信者であることによって社会生活において彼女は異端なのですが、彼女自身のキャラクターによって信仰仲間の中にあっても異端なのです。それが彼女の「生きづらさ」になっていますが、事が彼女の信条と性格に由来するために、それこそ生まれ落ちた時点から彼女はこの異端性を抱えています。だからそれが当たり前なので、ある意味、「もはや問題ではない」のです。空が青いのと同じく、生きづらいのがデフォルトなので、もちろんそれに伴う苦労はあるにしてもそれで悩むことはもはや意味がない、だから悩まない。彼女には異端でありながら底抜けの楽天主義があるとしたらその根っこは諦めの境地です。

 

斉藤由貴は特に楽曲に恵まれたアイドルです。シングルはいずれの曲も神曲のレベルにあります。

作詞では松本隆森雪之丞谷山浩子、作曲では筒美京平玉置浩二亀井登志夫原由子らが担当していますが、いずれも彼らのキャリアの中でも一二を争う水準の作品を提供しています。これはおそらく斉藤由貴に創作意欲を掻き立てる何かがある、ジャポニズムに触れたゴッホのように、斉藤由貴によって創作のトリガーを引かれる何かがあったということなのですが、デビュー曲『卒業』を例に、見てみましょう。

 

斉藤由貴がデビューシングル『卒業』を発表した1985年2月、同名のシングルが他に2作、チャートインしていました。菊池桃子の『卒業』と尾崎豊の『卒業』です。毛色の違う尾崎は別にして、ここでは斉藤と菊池、斉藤版『卒業』と菊池版『卒業』を比較してみましょう。

「80年代女性アイドル格付」では私は斉藤を8位、菊池を9位にしましたが、記録上の実績では菊池の方が上です。菊池はオリコン1位のシングルを6枚出していますが、斉藤は『青空のかけら』1作のみです。ただし、1985年から1989年まで、年間の順位で菊池が斉藤を上回ったのは1985年のみで、菊池は1988年と1989年には年間100位以内にチャートインしていませんが、斉藤はしています。斉藤の方が息が長いアイドルだったことがうかがえます。

1985年は菊池の全盛期で、菊池版『卒業』もオリコン1位になっています。斉藤版『卒業』も6位ですから、新人の実績としては大健闘だったのですが、その時点では菊池版の方が実績を残したのも確かです。しかしどうでしょうか、あれから30年近く過ぎて、言及される頻度が高いのも、記憶に残っているのも斉藤版『卒業』の方ではないでしょうか。それは楽曲としては斉藤版の方が出来がいいからだと思います。

松本隆はもちろん松田聖子プロデュースで知られますが、聖子以外に提供した楽曲の中にも佳作傑作はずいぶんあって、石川秀美『ゆ・れ・て湘南』、薬師丸ひろ子『Woman~"Wの悲劇"より』、斉藤由貴『卒業』『情熱』は白眉の出来です。

斉藤版『卒業』で好きなフレーズは、

ああ 卒業しても友達ね

それは嘘ではないけれど

でも 過ぎる季節に流されて

逢えないことも知っている

のところですね。集団から浮き上がっている、集団の中では流されない冷静な批評眼が提示されています。

これは私のある種の偏見かもしれませんが、女性による批評評論の多くは自己憐憫の主観が強すぎて読むに堪えません。平均のラインが男性よりもずっと低い。けれども最高水準の批評家何人かを選べと言われればおそらくそれは女性ばかりになるでしょう。批評に限らず創作でも感じることですが、女性全般の平均は低いけれども最高水準の女性の書き手は男性のトップと比較してもなお傑出している。そう感じることが多々あります。

斉藤版『卒業』における松本隆の作詞は、そうした女性の高度な批評眼を的確に捉えています。彼もまた超一流である証です。卒業と言う感傷の中にある冷静な眼差し、これを書いた松本隆もすごいし、これを歌わせようと思わせた斉藤由貴もすごいですね。菊池桃子の『卒業』もいい曲なんですが秋元康は男目線なんですよ、やっぱり。松本隆はさすがに年季が入っているだけあって、頭がいい女性の批評眼と言うか冷たさと言うか冷静さ、しっかり捉えていますね。けれども、これを菊池桃子が歌ったら似合わないと思いますから、秋元康は菊池桃子と言うフォーマットに沿った詞を作っただけかも知れません。

ただ、菊池桃子『卒業』と斉藤由貴『卒業』、ヒロインの立場は似通っているんですよ。どちらも、付き合っている/付き合ってはいない、は別にして初恋の男性を都会(東京)へと送り出す立場です。

菊池版『卒業』では、

4月が過ぎて都会へと

旅立ってゆくあの人の

素敵な生き方

うなづいた私

何だか物足りない、妙に物分かりがいい感じがします。対して、斉藤版『卒業』では、

セーラーの薄いスカーフで

止まった時間を結びたい

だけど東京で変わってく

あなたの未来は縛れない

とより主体的な、色彩の豊かな表現になっています。

諸般の要素があるから一概に作詞家の優劣はつけられませんが、出来上がったラインだけを見れば、『卒業』合戦は松本隆の圧勝なのは明らか、少なくとも私はそう思います。ただ、菊池桃子の歌ではヒロインがぼんやりとしているのはわりあい一貫しているんですね。『Broken Sunset』では彼氏からいきなり「他に好きな人が出来た」と切り出されても、「泣かないように目を閉じた」、それが精いっぱいの感情表現なんですね。重要なのは、菊池桃子にこういう歌を歌わせたい、こういう歌を歌うべきと作家や製作者が考えてサジェストした歌がそういう歌なんだということです。

女性なり女子なりが持っている批評性をみじんも感じさせない、幼女のような聖女のような、どこか現実離れした世界を菊池桃子は歌っています。男目線の少女の歌ですね。

対して、斉藤由貴の楽曲のヒロインは遥かに色彩が豊かです。デビュー曲の『卒業』からして、片思いの相手に対する批評が含まれています。斉藤由貴はそういう歌を歌わせたくなる、躍動感のあるアイドルです。

斉藤由貴の個性が、ライターを刺激して、それが結果的に神曲ばかりになった、ライターと歌い手の幸福な結合が斉藤由貴の楽曲にはあります。

 

女優としての斉藤由貴のキャリアを考えてみましょう。

斉藤由貴は一般に演技が上手な女優と見られています。もちろん下手ではありませんが、まず役柄の幅が狭い。活発でお転婆な少女(女性)が困難にたいあたりでぶつかって、周囲を動かしてなんとかなってゆく。このタイプの役、仮に斉藤由貴型と呼んでおきますが、こう言う役が非常に多い。

この型の初出は、1985年に放送されたNHK銀河テレビ小説『父(パッパ)からの贈りもの』です。これは日本最初期のコメディエンヌで文学座の重鎮だった新劇女優で演出家だった長岡輝子の自伝をテレビドラマ化したものです。長岡輝子はテレビドラマでは『おしん』の加賀屋の大奥様役(おしんに文字を教えた老女)で一般には知られています。斉藤由貴が出演した連続テレビドラマでは『スケバン刑事』の次、『スケバン刑事』の放送期間中に撮影・放送されたものです。

長岡輝子の父は著名な英文学者で、洋行のたびにお土産を買ってきてくれる、娘思いの父親でしたが、長岡が女優になりたい、そのためにパリで芝居修行をしたいと言うと、後押しをして費用も出してくれた、それが「父からの贈りもの」だった、そういう話です。『はいからさんが通る』っぽいというか、非常に『はね駒』的です。斉藤由貴の演技は、この斉藤由貴型、スケバン刑事型(『野球狂の詩』『スケバン刑事』『和宮様御留』『新十津川物語』)、その他型(『小公女セイラ』など)に分けられるとすると、圧倒的に斉藤由貴型が占める割合が高いです。

はね駒』も『あまえないでョ!』でも『はいすくーる落書』でも『吾輩は主婦である』でも、『八代将軍吉宗』や『同窓会』でさえ、基本的には同じ演技、同じキャラクターです。敢えてスケバン刑事型と分けたのもしいて言えばという話であって、ああ、いかにも斉藤由貴の演技だなと思わせるには違いありません。2012年の朝ドラ『おひさま』でも基本線を踏襲していたのには、ある意味、さすがだと思いました。

丹波哲郎がかつて言っていたのですが、キャスティングの時点で、この役はいかにもこの人に合うと思われてキャスティングされているのだから、余計な役作りは不要、自分自身がその場に置かれた状態で演じればいいと言っていました。一つの方法論としては分かる気がします。斉藤由貴が役作りをどう捉えているのかは別として、結果的に役を自分の側に引き寄せる人だと思います。

役の後ろに斉藤由貴が見えて興醒めだ、というのではないんです。「役を自分に引き寄せる」型の人にはそういう人がいますね。そう言う人は多分、役それ自体に対する理解が足りません。他人に対するアンテナが弱いんじゃないかと思います。本質的にナルシストの人は役者には向いていません。

斉藤由貴は役として非常にリアリティがある演技を見せています。ただ、そのリアリティが斉藤由貴と言うフィルターを抜きがたく感じさせる、そういう意味ではたぶん、役そのものとは違います。斉藤由貴が実際にそう言う立場だったらこういう反応を返すだろうという意味では非常に説得力があります。ただし、そのリアクションは斉藤由貴以外では再現不能という意味において、役そのものには根差していないのです。

もちろん、役者の演技なんて誰の演技でもその人以外には、その人であっても再現不能じゃないかと言うならばそうなんです。その通りなんですが、自分と言うフィルターを演技の構築の上でどれだけ重視するかどうかで、役そのものからロジカルに構築するタイプと役を自分に引き寄せるタイプに分かれるのではないか、そう思います。その分け方ならば斉藤由貴は明らかに後者ですね。

 

1986年、朝の連続テレビ小説はね駒』の主役に斉藤由貴は抜擢されました。朝ドラではヒロインはオーディションで発掘されることが多く、実際、『はね駒』以降では再びオーディション選考に戻り、若村麻由美、山口智子藤田朋子らが発掘されていますが、1985年の『澪つくし』と1986年の『はね駒』は既に有名であった沢口靖子斉藤由貴が抜擢され、非常に好評でした。

1983年『おしん』以後、朝ドラ自体が好調だったのですが、その中でも『澪つくし』と『はね駒』は視聴率も良ければ評価も高い作品です。朝ドラが新人を起用することが多いのはスケジュール拘束が長時間、長期に及ぶからであって、1986年の時点で普通に考えれば斉藤由貴に朝ドラに主演するメリットはそれほどありません。

すでに名も売れていて、アイドルとしても若手女優としても収穫の時期でした。東宝は1985年に一作『雪の断章』、1986年に一作『恋する女たち』で彼女主演の映画を製作していますが、『はね駒』がなければもう何作かとれたでしょう。朝ドラの主演女優はとにかくハードスケジュールだったと言いますが、斉藤の場合は『はね駒』の撮影・放送中にもアイドルとしてベストテン番組や他の歌番組にも事実上、レギュラー出演していて、CM撮影や映画の撮影まで入っていたのですから、その多忙さは半端ではありません。普通に考えたら、『はね駒』の主演依頼は断るだろうと思います。

けれども彼女と東宝芸能はそれを受けました。アイドルとして数年を駆け抜けるのではなく、女優として一生活躍していくためには、確かに朝ドラ主演は一生涯の名刺になるからです。そして『はね駒』は共演者である渡辺謙の名を全国区にして、翌年の大河ドラマ独眼竜政宗』への道を切り開くと同時に、斉藤を国民的女優にしました。

この年、斉藤は『悲しみよこんにちは』で紅白初出場を果たすのですが、紅組司会も担当しています。松たか子が同じく紅組司会を担当するまで、紅白最年少司会の記録でした。松たか子の場合は、高麗屋のお嬢さんですし、NHKドラマ『藏』では目の覚めるような演技を見せてNHKに対する貢献もありました。斉藤由貴も東宝をバックに持ち、『はね駒』の貢献もありましたが、斉藤も松も、立ち位置から言っても実績から言っても、彼女ならば当然だという国民的な支持があったということです。

斉藤はアイドルとしては最も広範囲から支持された人ですが、支持層が広いと言う点では小泉今日子に似ていますが、小泉は高齢層にはアピールしていません。高齢層にも「うちの孫」的な人気があったという意味において、当時の斎藤の立ち位置はまさに国民的、似ている立場の人を選ぶならば、アイドルではなく、70年代末期の萩本欽一黒柳徹子に似ているのではないかと思います。

フェイドアウトの仕方も理想的でした。

80年代最末期から90年代初頭の、音楽番組壊滅の時まで、とにかく彼女はチャートに入り続けて、二流感を寄せ付けませんでした。

不倫騒動は大きな痛手になったはずですが、その後すぐに結婚してそれを理由にしばらく家庭に入ったため、仕事の波と自分のライフサイクルの波を上手くあわせて、プレミアム感を維持することが出来ました。斉藤由貴は確かに運がいいのですが、運を呼び寄せるのもキャラクターですから、実力に裏打ちされていると思います。