マスダ80年代女性アイドル論~南野陽子論

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マスダ80年代女性アイドル論~インターバル

マスダ80年代女性アイドル論~薬師丸ひろ子論

 

南野陽子と言えば、『はいからさんが通る』です。『はいからさんが通る』は少女漫画の代表的作品を挙げる時には必ず名前が挙がる作品ですが、70年代中頃の作品です。

薬師丸ひろ子論の中で、70年代にはマルキシズムの影響で、「女性も男性のようにリーダーシップを執らなければならない」という思想が、少なくとも先進的な意識を持つ若い女性や学校にはあった時代だったと言いました。その「あるがままの私」が80年代において現実との軋轢の中で鍛え上げられていきました。70年代の「あるがままの私」が実は女性に無理を強いているのではないか、それは本当に「あるがままの私」ではないのではないかという問題意識を体現し、生き方としてロールモデルを提示したのが松田聖子です。

しかし70年代以前は、松田聖子はまだ存在せず、女性は無理を承知で男の真似事をしなければならなかったのですが、その時代のロールモデルはフィクションの中にありました。

はいからさんが通る』もそのひとつです。この流れから、80年代の少女小説家たち、氷室冴子らが出てくるのですが、氷室冴子が理想としてのフィクションをいかに守ろうとしたか、いかに現実との狭間で苦闘を強いられたか、彼女の作品と同時に、諸々の葛藤を描いたエッセイをお読みになればあの時代の少女の意識と彼女たちが直面した現実が分かるのではないかと思います。

 

アイドル論を無理やりフェミニズムで語るつもりはないのですが、結果的にそれに近い感じになっていますね。それはアイドルたちが、時代のロールモデル、少女たちの在り方を反映しているからです。

薬師丸ひろ子には王道的な、「党中央本部の作成したスローガン」のような無菌的な匂いを感じますが、南野陽子はもっと現実寄りの人です。しかし評論家的ではありません。南野陽子には確かにフェミニズム寄りの感性があるように見えますが、フェミニズムがその成り立ちから逃れがたい、アンチとしての批判性を濃厚に持っているとしたら、南野陽子にはそれはありません。

フェミニズムの到達地点が南野陽子にとっては当たり前の状況、出発点であるような、そういう印象があります。

70年代にはフィクションで切り取られるしかなかった『はいからさんが通る』的な在り方が、現実に当たり前のように南野陽子の中には存在しています。南野陽子は『はいからさんが通る』の作者の他の作品である『菩提樹』にも映画主演していますが(『菩提樹』はおそらく大和和紀の最高傑作です)、自分の足で立つヒロインを南野自身のキャラクターを投影して演じています。

 

南野陽子は女子校出身ですが、プロフィールを見る前から私はおそらくそうなんだろうと思っていました。女子校出身者はしばしば、男性がいない状況で、ジェンダーとしての女性を内在化させないことがあって、すべての女子校出身者がそうではありませんが、自然な独立心を持っている女性のかなりが女子校出身者です。

そうした女性の社会への眼差しはアンチでもなければ評論家的でもありません。あくまで自分もその一員であると言う、責任感を持っている、部外者性をあらかじめ排除しています。

たびたび引用している松任谷由実の評ですが、彼女は南野陽子について、

「彼女は自分を持っているから好き」

と言っています。自分を持っていない人なんているんでしょうか。誰しも逃れがたく自分を持っています。けれどもその自分は幾層にも思惑や配慮や自分がこうなりたいというロールモデルによって塗り固められていて、剥き身の自分が自分でさえ分からなくなっている、特に女性はそういう人がほとんどです。

この場合、南野が自分を持っているというのは、剥き身の自分を隠すことさえ考慮にない、そのある種の無鉄砲さ、清々しさを指しています。それは絶対的に、かつ盲目的に自分を肯定する、傲慢さとは似て非なるものです。その種の傲慢さは実は絶対ではないからです。

例えば自分が美しいということについて、南野はもちろんそれを自覚しているでしょう。多くの場合、それは自意識とリンクして、自分をも値ぶんだうえで、他人を侮蔑することに直結します。それは多くの女性が、自分の武装と自意識を切り離して捉えることが出来ないからです。そうすることが出来ない、ということがジェンダーなのかも知れません。

南野の場合は、要素として自分が美しいことは承知している、だからそれを活用しようとする、しかし自意識はその要素とは別のところにあるのです。自意識は要素とはまったく無関係に絶対的に肯定されるものです。なぜならば自分は自分であるのですから。

比喩的に言うならば、南野の自己に対する捉え方は企業家的です。アイドル南野陽子は商品であるので、南野陽子当人とは別のものです。これはアイドルを演じている、別人格というのではなく、南野陽子の商品性を客観視しているということです。

表層に現れるアイドル南野陽子が、アイドルとして非常に典型的であるだけに分かりにくいかも知れませんが、南野陽子当人は理性的な、理が勝った女性です。そしてテレビはアイドル南野陽子を見つめる南野陽子をも映し出すのです。

商品としての自分と自分当人を分けて考える、このことを自分についても他人についても理解できない人がたくさんいます。

今年の初めに亡くなった十二代目市川団十郎の父の、十一代目市川団十郎は腰が低い人でしたが、団十郎を襲名してからは打って変わって尊大になりました。多くの人は彼当人が尊大になったと見たのですが、そうではなく、彼は団十郎と言う暖簾に対して敬意を要求したのです。歌舞伎役者ならば団十郎に最大の敬意を示すのが筋、悪評がたつことで彼個人には不利益になっても、団十郎の暖簾を守ろうとしたのです。

南野陽子も、尊大だと悪評が立つことが多い人でしたが、南野陽子と言う暖簾を大事にしろとスタッフに言ったのだとしたら理解しやすい話です。非常に友人が多い人で、素が出やすい場面では気さくな人ですが、素のキャラクターとアイドル南野陽子とアイドル南野陽子の経営者としての南野に乖離があるのだとしたら、それは自分を見つめる目が極端に理性的だからです。

 

素材として南野はアイドルとして最高のものを持っています。美人ではあるけれども、親しみやすいキュートな顔立ちで、声も鈴が鳴るように可愛らしい。アイドルとして最高なので、それ以外では大成しにくいという弱点もあります。

松田聖子中森明菜は歌唱力で、小泉今日子は斬新なパフォーマンスで、薬師丸ひろ子は演技で大成したように、実は彼女ら、スーパーアイドルであっても純粋にアイドルとしての性格を維持した期間はそう長くはありません。例えば中森明菜は、デビュー直後は肉感的な身体を水着を着て晒すなど、いかにもアイドル的なことをしていましたが、シングル3作目くらいからもう、歌唱をメインにした、アーティストとしての性格を強めています。『TANGO NOIR』の頃は皇后エリザベートもびっくりするくらいウェストが細くて折れそうなほどですが、デビュー直後はむしろやや太めなくらい、それくらいの方が男子には人気なのですが、性的なアイコンとしての価値を斬り捨てて、表現を高めていった、そういう路線に入ったから「単なるアイドル」を越えた時代のアイコンになったのです。南野にはそういう「先」はありませんでした。それはアイドルとして完成されていたからです。

何万人にひとりの逸材で、顔と名が知られるや否やあっという間にトップアイドルに上り詰めたのは不思議ではありません。不思議なのはこれほどの逸材が長らく飼い殺しにされていたことです。意外とプロフェッショナルのスタッフも分かっているようで分かっていない、そう思うことが時々あります。南野が「下積み」を強いられたというのにもそういう感想を持ちます。

角川三人娘のひとり渡辺典子は美人系の女性でアイドルとして人気が出るタイプではないのですが、オーディションでは彼女がグランプリ、原田知世が特別賞でした。むろん、人気も実績も原田知世の方がはるかに上の結果を残しました。

南野陽子も大手に所属すれば事情は違ったのかも知れませんが、彼女が所属したのは、エスワンカンパニーという弱小事務所でした。この会社はピンクレディーの楽曲で知られる作曲家の都倉俊一氏が立ち上げた芸能プロダクションで、売り込みのノウハウがありませんでした。

堀越学園での彼女の同級生は本田美奈子岡田有希子、高部知子石野陽子らがいましたが、彼女たちが仕事に忙しく早退してゆく中で、南野は焦らざるを得ませんでした。事務所があてにならない中、南野は一人で売り込みを開始し、自分でプロフィール名刺を作成して、テレビ局や出版社を回りました。彼女にとって最初のチャンスになった週刊少年マガジンのグラビアの仕事は、そうやって彼女が自分で営業を行って獲得したものです。

このグラビアの仕事から、『スケバン刑事Ⅱ』の仕事が決まり、一躍彼女はトップアイドルになってゆくのですから、売れるうえで事務所には何の世話にもなっていないと彼女が思ったとしても当然でしょう。

エスワンカンパニーは作曲家の個人事務所のようなもので、音楽業界はともかく演技に関しては指導育成のノウハウがありませんでした。器楽的な意味において、南野がアーティストとして魅力に欠けるため、売出しに熱意が無かったのかも知れません。

横道の話になりますが、エスワンカンパニーには他に太田貴子が所属しています。彼女はアニメ『うる星やつら』の主題歌を歌い、アニメ『魔法の天使クリィミーマミ』に声優として主演したため(救いようがないくらい下手でした)、オタク層に支持されるアイドルになりました。しかし、自らの支持層であるオタク層を「気持ち悪い」と評したため、急速に勢いを失くします。アイドルの親衛隊と言えば、ヤンキーが多かったのですが、80年代後半からオタク層が目立つようになり、以後、アイドルはオタクのものになってゆくのです。

太田貴子や南野はその端境にいたアイドルです。

女優業についてはエスワンカンパニーではマネージメントが出来なかったので、青年座にマネージメントを外注する形になりました。この結果、南野はエスワンカンパニーと青年座に両属するような形になってしまい、急速に売れっ子になると、彼女のスケジュールを巡って両事務所が争い、頻繁にダブルブッキングが発生しています。

南野がスタッフに対して当たりが厳しい、厳しく叱責しているという噂はずっと以前からあったのですが、それを公に最初に示したのは浅香唯です。浅香唯は芸能界裏話のような話で、

「自分のスタッフに大声で怒っていて、テレビと全然印象が違った。芸能界は怖いところだと思った」

みたいなことを言っています。一応名前は伏せてありましたが、誰がどう見ても南野とすぐに分かるように作ってありました。

後に南野は週刊文春のインタビューにてそれが事実であることを認めています。その理由として、クライアントに迷惑をかけるダブルブッキングが頻発していたことを述べています。

また、そのインタビューの中で、当初はまともにマネージメントを受けられなかったこと、転機になった仕事は自分で営業活動を行ったこと、事務所独立時の確執についても述べています。南野陽子の独立を契機としてエスワンカンパニーは負債を背負って倒産しているのですが、その負債が南野が知らないうちに南野名義になっていて、数億円と言うその負債を南野が背負ったそうです。それが事実ならば刑事事件にもなるような話で、裁判に訴えれば南野は負債を免れたはずですが、アイドル南野陽子がそんなお金にまつわる醜い振舞をしては、ファンを傷つける、だから裁判には訴えなかったと述べていました。

これは南野陽子側の言い分ですが都倉氏から反論がなされていないため、大枠では事実と考えていいでしょう。

その後数年、テレビから干された、と南野は言っていますが、プロフィール年表を見る限り映画の活動は活発でしたから、余り干されていたという印象はありませんが、90年代は特にテレビドラマの影響力が強い時代でしたから、彼女ほどのコンテンツがテレビドラマでは活用されていなかったのは事実です。

この時期、南野は状況を打開するために、単身、ハリウッドに渡り、ユニバーサルスタジオの門の脇に立って、プロフィール写真を関係者に配っています。誰にも知らせずに自分一人で行ったことですが、もちろんカリフォルニアにも日本人は大勢いるわけですから、すぐにあの南野陽子がと噂になりました。とにかくものすごい行動力です。実際、オファーもいくつかあったらしいのですが、ちょうど日本での映画の仕事がたてつづけに入ったため、その仕事は友人知人に回したそうです。彼女はプロデューサーになっても大成したでしょう。

 

自分を持っている南野ですが、それが如実に表れたのは主演映画『私を抱いてそしてキスして』の完成記者会見での発言です。この映画は当時、日本でも広がりつつあったエイズ、その患者、患者に対する偏見を描いた作品で、啓蒙映画的な意味合いがありました。日本でのエイズ患者の大半は実は薬害エイズによって感染していたのですが、当時、厚生省によって患者第一号に認定されマスコミにも登場したのは同性愛者の患者でした。これは、エイズが同性愛者の病気であり、薬害エイズを覆い隠そうとした当時の厚生省の思惑があったと見られています。

橋本内閣で厚生大臣を務めた菅直人によって薬害エイズ被害が厚生省ぐるみでの怠慢によって引き起こされたと明らかになったのが1995年、この映画はその3年前の制作ですから、厚生省がまだ性病としてのエイズに焦点を合わせていた頃の映画です。

この映画ではヒロインが前の恋人によってエイズをうつされ、エイズであることにショックを受けるけれども、新しい恋人にはそのことを言えずに性交渉を持ってしまう。その結果、妊娠して出産するけれども、その恋人の愛に包まれながら死んでゆくという内容です。

あり得ないと言うかほとんど犯罪的なのは「エイズと知りながら他人と性交渉を持つ」ことを「あなたを失いたくなかったの、許して」みたいに処理している点です。この「愛がすべてを癒す」みたいなご都合主義的な展開についてはこの映画が社会問題を取り扱っているだけに記者から厳しい批判がなされました。

それに対して南野は、

「私もそう思います。映画の内容はご都合主義です」

と言うような内容の発言を行い、映画のコンセプト自体を批判する形になり、同席していた映画プロモーターは狼狽し激怒していました。ことここに至るまでに、内部で南野は批判を口にしていたのでしょう。

 

アイドル寄りの話をしましょう。

80年代半ばに究極の選択というお遊びが流行りました。「ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ、どちらを食べるか」みたいなものです。そのひとつに、「南野陽子と一回やって死ぬのと、林真理子と毎日やって100歳まで生きるのとどちらがいい」という、いかにも男子中高生的な下世話で思いやりのないお題がありました。

ここで南野陽子はティーンズアイドルとして最大公約のセックスアイコンとして扱われています。これが他のアイドル四天王だとしっくりいきません。中山美穂だと妙に生々しいし、工藤静香では好き嫌いが多そうです。浅香唯はアピール層が南野よりはずっと狭い。

ここでは南野はセックスアイコンではありますが、何も実際にセックスをしよう、したいというわけではなく、男子同士が下世話に社交として名前を出すのにちょうどいい、ニュートラルな感じがあるからここで用いられているのです。

つまりセクシャルな印象がないからこそ、社交としてのセックスアイコン向きなのです。この、女子でありながら女性ではない感じがアイドル向きなのです。

南野陽子は『楽園のDoor』から『フィルムの向こう側』まで11作連続してオリコン1位もしくは2位を達成しています。そうでありながら、人口に膾炙した楽曲がほとんどありません。一番有名なのは『はいからさんが通る』『吐息でネット』でしょうが、同時代の小泉今日子や工藤静香、中山美穂のようには、カラオケで女子が歌う定番にはなっていませんでした。『秋の Indication』のように楽曲として優れたものもありましたが、おそらく南野以外の人が歌った方が楽曲の魅力を引き出せていたでしょう。

南野陽子は素材の時点でアイドルとして完成されているので、アーティスト性は無いのです。試しに、南野の楽曲を南野以外の人が歌っていたらと想像すると、どうもそちらの方が魅力的に見える。南野は楽曲が持つポテンシャルをむしろアイドル歌謡の域にまで引き下げているのではないか、私は南野のファンですがそう思わなくもありません。

私は工藤静香を実はそんなに歌が上手いとは思っていませんが、まあ80年代女性歌手としてはパンチのきいた歌い方をする、「」付の歌唱力はあります。工藤静香はその歌唱力によって訴求力があったのも事実でしょう。

中山美穂はフェミニンなロールモデルとしてアイドルの枠を超えて同性に支持されました。

他のアイドルたちがアイドル性の中核とは別の部分で武装していたのに対し、アイドル性そのもの、それだけでトップアイドルになり、長期間その地位を維持した、その点が南野が非凡なところです。

それは素材として彼女が圧倒的に優れているから出来たことでした。

オリンピック招致の力学

近代五輪では各国ごとに国内五輪委員会が置かれ、招致・運営では開催国が国家レベルで対応することが求められます。開会式では国家元首、政府代表が開会を宣言することになっていて、過去3回、日本で開催された五輪では(1964年東京大会、1972年札幌冬季大会、1998年長野冬季大会)、その時の天皇陛下が開会を宣言なさっておられます。

誰が開会宣言を行うのか、と言うのもわりあい面白くて、カナダでは1976年のモントリオール大会では、英連邦の国家元首、イギリスのエリザベス2世がカナダ女王として開会宣言を行っていますが、1988年のカルガリー冬季大会、2010年のバンクーバー冬季大会では、カナダ総督が開会を行っています。同じく英連邦の一員であるオーストラリアでも、1956年のメルボルン大会ではイギリス王配であるエディンバラ公フィリップ王子が開会宣言していますが、2000年のシドニー大会では民選のオーストラリア総督が行っています。カナダ、オーストラリアが旧イギリス領の色彩を薄くして、独自色を強めているのが反映されています。

 

近代五輪はヨーロッパ発祥ですから、初期の開催国はヨーロッパ諸国ばかりです。以前、スケート競技でしたか、移動の際、役員がファーストクラスなのに選手がエコノミーだったことがあって、本末転倒ではないかという話がありましたが、五輪のアマチュアリズムというのは要は金持ちの道楽ということなので、役員は貴族や大金持ちで、彼らがスポンサーになって競技を運営するのが普通だったので、選手よりも役員が優遇されるのは「本来の五輪」らしい在り方です。ウィンタースポーツ、特にフィギュアスケートなどではスポンサーのオーナーシップがまだ残っているようですね。

アマチュアリズムですから商業的成功は度外視されて、五輪は大会終了後のバランスシートが大赤字になるのが普通でした。五輪を開催するのは、権利ゆえではなく、利益を求めてのことではなく、「高貴なる者の義務」として行われるものでした。

この路線が転換したのがスペイン出身のサマランチがIOC会長に就任して以後のことで、彼は五輪のテレビ化、商業化を進めてゆきます。1971年生まれのハナブサが最初に記憶している五輪は1984年のロサンゼルス大会です。大会マスコットのイーグルサムが描かれたグラスを景品で貰ったのを覚えています。

ロサンゼルス大会では、現在につながる数々の商業化の措置が本格的に導入されて、大会終了後、巨額の黒字を計上しました。大会委員長であったピーター・ユべロスはその手腕が評価されて、MLB(大リーグ)のコミッショナーに抜擢されています。以後、五輪開催は儲かるものになって、開催を希望する年が飛躍的に増えました。大会終了後の施設の維持管理費を含めれば本当にペイするのかどうかは疑問ですが、財政的な面でハードルがかなり下がったのは確かです。

ロサンゼルス大会以前は開催立候補都市は少なく、特に1980年の夏季大会は立候補がなくてIOCがソ連に泣きついて、モスクワ大会を開催して貰った経緯があります。ソ連によるアフガニスタン侵攻で、日本を含む西側諸国はモスクワ大会をボイコットしましたが、泣きつかれたから引き受けたのに面子を潰されたとしてソ連は激怒しました。それが1984年のロサンゼルス大会でルーマニアを除く東側諸国のボイコットを招きました。ルーマニアの当時の大統領は1989年の東欧革命で民衆によって殺害されることになるチャウシェスクでしたが、ルーマニアは当時はソ連の統制を離れて独自路線を行くことが多く、西側ではチャウシェスクは「物分かりがいい指導者」と見られていました。また、中華人民共和国は建国以来、五輪を資本主義の腐敗の象徴として忌避していましたが、70年代の米中接近を受けて、1980年のアメリカで開催されたレイクプラシッド冬季大会に初めて選手団を派遣し、続く1984年のロサンゼルス夏季大会でも大規模な選手団を派遣しました。

1984年ロサンゼルス大会は商業主義、政治色が強いという二点で、ターニングポイントになった五輪大会です。

 

1984年ロサンゼルス大会以後、五輪招致活動が熾烈になりました。五輪招致運動がかくも激しくなったのはたかだかここ30年の話なのです。

IOCは五輪開催において「地域持ち回りはしない」と言っています。実際、2018年平昌冬季大会(韓国)、2020年東京大会と東アジアでの開催が続く予定になっていますが、冬季大会はそもそも気候的に開催可能国が限られることから、冬季大会と夏季大会で開催地域が連続することはこれまでもありました。

ただし夏季大会では、初期の、事実上、欧米諸国のみが参加していた頃を別にして、戦後、特に80年代以降は開催地域が連続しないように留意されているのは明白です。

2020年に東京大会が決定されたことから、2024年の候補都市である釜山(韓国)、台北(台湾)が開催地になる可能性は非常に小さくなりました。韓国や台湾は親日であれ反日であれ、今回の投票では東京を支持しなかったでしょう。

今回、最終候補三都市は、東京がアジア、マドリッドがヨーロッパに所属するのは自明として、イスタンブールはアジアとヨーロッパに両属しています。トルコの国内五輪委員会はヨーロッパ五輪評議会に属していますが、国連での分け方ではトルコはアジアの国です。

韓国や台湾の支持が東京には向かわなかったとして、マドリッドイスタンブールのどちらに向かったかを推測すれば、おそらく、より非アジア色の強い、マドリッドに向かったでしょう。2024年大会の最有力候補都市はパリですから、パリ潰しの意図からも2020年大会ではヨーロッパの都市であるマドリッドを支持するのが合理的です。

中国としては2024年大会で万が一にも台北で五輪が開催されるのは絶対阻止したいはずです。そのためには2020年大会は東京開催が望ましいでしょう。おそらく中国のIOC委員は東京に投票したと考えられます。同じく、韓国開催を望まない北朝鮮も東京を支持した可能性が高いです。

それらと同じ理由で、2024年大会候補都市を擁しているヨーロッパ諸国、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、ウクライナは東京に投票したでしょう。

アジアでもなくヨーロッパでもない国で、2024年大会候補都市を抱えているアメリカ、カナダ、モロッコ、メキシコはパリ潰しの意味からマドリッドを支持したでしょう。

イスタンブールはイスラム圏初、中東初の開催を狙っていましたが、トルコはイスラム圏ではあってもアラブではありません。アラブ諸国は当然、イスラム圏初の開催はアラブでと考えるでしょうから、トルコにその名誉を譲るとは考えられません。東京かマドリッドのどちらかに投票したでしょう。

 

このような事情を踏まえて各都市の基礎票を見ると、東京18票、マドリッド12票、イスタンブール0票になります。

この投票時点でのIOC委員は103名です(ウィキペディアの日本語版は記事が古く、英語版は新しすぎます。この投票後にIOC委員の入れ替えがありましたから、英語版の記事は既にそれが反映されています)。候補都市を擁する国の委員には投票権がありませんから、スペイン3名、日本とトルコが1名ずつの計5名分の票が差し引かれます。

第一回投票と第二回投票(二位決定投票)ではロジェ会長は投票しませんから、更に1票が差し引かれ、エジプトとフィンランドの委員、計2名が欠席しましたから2票が差し引かれます。

第一回投票では合計95票で争われた計算になるのですが、実際の合計は94票になっています。第二回でも94票、最終投票ではロジェ会長も参加して、96票になっています。つまり謎のX氏が1名いて、その人は第一回と第二回の投票では棄権した、もしくは無効票だったけれども、最終投票では参加したことになります。

各都市の基礎票ではない票は各都市に三分割されるとし、アラブ諸国のうち、2024年の候補都市を擁する(その時点で)カタールとアラブ首長国連邦の票はマドリッドに投じられ、それ以外のアラブ諸国の票は東京とマドリッドで二分されるとします。

これらを踏まえて第一回投票での、「妥当な」推計得票数は、

東京 40.5

マドリッド 34.5

イスタンブール 19

になります。実際の得票数は、

東京 42

マドリッド 26

イスタンブール 26

でしたから、東京はやや健闘、マドリッドは大惨敗、イスタンブールが大健闘したことが分かります。

ハフィントンポストなどでマドリッド優勢が事前に伝えられていたのは一体何だったのでしょうか。五輪は平和の祭典ですが、言うまでもなく国威発揚の場所でもあります。

夏季大会を中心にしていえば、アメリカではわりあい頻繁に開催されています。1984年のロサンゼルス大会の次が1996年のアトランタ大会は12年後、冬季大会でもその近いところでは1980年のレイクプラシッド冬季大会、2002年のスルトレイクシティ冬季大会が開催されていますからアメリカでの開催は例外的に非常に多いです。

これは五輪運営の事実上のスポンサーがアメリカの放送メディア、アメリカ企業であることと、北米地域に分類されるのがアメリカとカナダに限定されること(メキシコは中南米地域のカテゴリーでしょう)の二点が理由です。そのアメリカも2024年夏季大会を開催出来なければ夏季では最低32年は開催がないことになりますし、冬季を含めても26年は開催から遠ざかることになります。

戦後、夏季大会が同一国で開催された例があるのは(アメリカを除いて)、オーストラリアがメルボルン大会とシドニー大会の間の44年、イギリスが1948年ロンドン大会と2012年ロンドン大会の64年のスパンを開けての開催があります。日本も1964年東京大会と2020年東京大会の56年の間隔を開けての開催国になります。

オーストラリアが結果的に優遇されているように見えるのは、南半球で五輪を開催できる国が事実上オーストラリアしかなかったからですが、リオデジャネイロ大会も2016年に予定されていますし、今後、アルゼンチンや南アフリカでも開催が見込まれますのでオーストラリアでは60年、70年経たないと夏季大会は開催されないでしょう。イギリスの場合は冬季大会も開かれたことが無いので、ヨーロッパの主要国としては2012年にロンドン大会が開催されたのは不思議はありません。

日本は冬季大会をすでに二度開催したうえでの、今回の二度目の東京五輪決定ですから、オーストラリア以上に優遇されていると言っていいでしょう。これはオーストラリアと事情が似ていて、80年代後半までは、非欧米諸国で五輪を開催する能力がある国は日本だけだったので、五輪開催がわりあい多い国になっています。今回、対抗都市がマドリッドイスタンブールでなければ、2024年大会の候補都市でヨーロッパ主要国が軒並み名乗りを上げていなければ、東京開催決定は難しかったでしょう。

五輪は国が主体になって運営しますから、招致を巡っては国益がぶつかる場所です。ロビー活動はもちろん招致のため、中間票を取り込むためには重要ですが、各国の思惑の方がより重要です。2016年の招致活動が駄目で、今回が良かった、とは言い切れません。あくまでタイミングの問題です。

スペインは1992年にバルセロナ大会を開催しました。仮に2020年にマドリッド大会が開催されていたとしたら、その間隔は28年でしかありません。フランスでさえ戦後は夏季大会を開催していないことを踏まえると(パリを含め何度も立候補はしていますが)、「身の程知らず」と思われたとしても無理もありません。

特殊な例外、別格であるアメリカを除けば、南半球唯一の大国であったオーストラリアで44年間隔、『大英帝国』で64年間隔、そして経済大国日本でさえ56年間隔なのですから、「おいおい、スペインごときがアメリカにでもなったつもりかよ」と冷笑されるのも予期すべきでしょう。

スペインは地域分裂の国内事情で、カタロニアのバルセロナで五輪を開いたなら、カスティリアマドリッドでも、という国内の欲求があるのでしょうが、スペインの他国の感情を考慮できない無謀な立候補への反感がマドリッド惨敗につながったと見るべきです。マドリッドは3回連続の落選ですが、あと30年くらい経たないと出るだけ無駄でしょう。他のヨーロッパ諸国が敵に回るだけです。

スペインが力を入れるべきなのは冬季大会の開催であって、まだしもそちらの方が、実現可能性が高いのでしょうが、スペインのスキーリゾートと言うと、カタロニアやバスクが中心になるのでしょうか。

スペインの例を参照にすれば、日本も2020年東京大会以後、半世紀は夏季大会は開催の見込みがないことを知っておくべきでしょう。日本も第三者にとって魅力があるかどうか、納得が得られるかどうかではなくて、身内の盛り上がりで招致活動に突っ走る傾向がありますから、やるだけ無駄なことに税金を注ぎ込むのはやめてほしいですね。冬季大会は可能性があるかも知れませんが。

 

第二回投票(二位決定戦)では、

イスタンブール 49票

マドリッド 45票

で下馬評と違って、マドリッドは最下位で落選しました。これはイスタンブールが支持されたと言うよりは、マドリッドが嫌われたと見るべきでしょう。

決選投票では、

東京 60票

イスタンブール 36票

で、もしマドリッドの票が半々で割れていたとしたら、イスタンブールは41.5%を獲得すべきなのに、実際には37.5%しか獲得していないので、イスタンブールは推計値よりも競り負けています。ここでは東京は「まあまあ健闘した」と言っていいでしょう。

2020年東京五輪招致活動は、最終候補が絞られた時点で、2024年の招致活動を見越して言えば、東京が圧倒的に有利なのは見えていました。ですから、東京五輪が決定されたと言っても、それが原発事故に対する日本政府の対応が国際的に信任されたということではありません。各国は自国の利益を優先させたというだけのことです。

その、東京に有利だったポテンシャルを踏まえていえば、実際の結果は、大健闘とまではいかなくて、まあまあ健闘した、と言えるぐらいです。

首都圏人としては、物価上昇や混雑、ハコモノを作るための財政赤字が予想されて、あんまりウキウキする気分ではないのですが(サミットも東京以外の場所で開催されるようになってほっとしています)、決まった以上は外国からのお客様が快適に日本滞在を楽しめるようになるのを願っています。

マスダ80年代女性アイドル論~薬師丸ひろ子論(転載)

脇道から入りましょう。

資生堂は松田聖子をデビュー以来サポートしてきた企業でしたが、『Rock'n Rouge』の時に聖子はカネボウのCMに出演し、カネボウの業績が大きく伸びるきっかけになっています(『Rocn'n Rouge』の歌詞に唐突に"pure, pure lips"と入っているのは口紅のCMに用いられたからです)。このことについて、当時、資生堂側からは聖子を裏切り者扱いする声もありましたが、聖子をイメージキャラクターとして徹底して囲い込まなかった、資生堂の戦術ミスでしょう。カネボウは一時期、資生堂に追いつき追い越せで急成長するのですが、元々は紡績会社であり、旧部門を整理しきれず、経営資源を集約化できない決断力の無さを「ペンタゴン戦略」と言い繕っていましたが、そのことが結局、命取りになりました。好調だった化粧品部門は今は花王の子会社です。

先年、アメリカではコダック社が会社更生法の適用を申請しました。写真フィルム業界は事実上、日本2社、アメリカとドイツがそれぞれ1社の寡占市場で、高収益を見込める市場だったのですが、ご存じのとおり、デジタル技術の普及によって市場が壊滅しています。その変化に対応しきれなかった、ということでしょう。

生物学では適者生存と言いますが、パラダイムの変化が起きる時に、真っ先に滅びるのは最適合していた強者です。似たようなことは生物史においてだけではなく、経済や歴史、文化においても起こっています。

日本は映画大国です。アニメーション映画も含めて年間400本以上制作されていますが、制作本数が割合多い方の国であるドイツの制作本数を日本の人口に比例させて置き換えれば300本程度なのですから、相対的にも日本は映画産業が好調な国だと言えます。この映画産業が壊滅的に縮小したのが70年代であって、言うまでもなく、これはテレビの影響です。どこの国でも映画産業は模索の時代を迎えていたのですが、世界市場を持つアメリカ映画しか生き延びることは出来ないのではないか、そういう見方もありました。そのアメリカ映画でも従来の大手映画会社による支配が大きく崩れ、独立系の新進の若い映画人たちが大量に参入し、映画産業を立て直してゆくのも70年代のことです。ルーカスやスピルバーグらもそういう人たちでした。

日本の映画製作会社大手五社のうち、日活はロマンポルノに特化し、大映はテレビドラマ向けの撮影所だけが存続しました。東映、松竹、東宝も映画製作会社としては規模が大幅に縮小して、「洋画の興行」と不動産事業で何とか生き延びていたような時代です。日本映画はそのまま衰退していたとしてもおかしくはありませんでした。こう言う状況を受けて、70年代末期には独立系の志のある映画人、新興の映画製作会社が市場に参入しています。代表的な企業としてはキティ・フィルムで、80年代には『うる星やつら』や『銀河英雄伝説』の制作で知られる、アニメーション制作スタジオとして有名になりましたが、元は映画製作会社で、『限りなく透明に近いブルー』を映画化しています。

もうひとつ、大きな足跡を残したのが角川書店(角川春樹事務所)です。薬師丸ひろ子はこの両企業の黎明期の作品に関わっています。そういう意味では日本映画復興を象徴する女優でした。

 

角川春樹事務所が映画製作に乗り出しのは、本を売るためであって、メディアミックスの先駆けでした。メディアミックス戦略が映画産業にとって荒天の慈雨となったのには理由があります。角川のように、映画と出版、両方に関係していれば、グロスで元が取れればいいわけです。極端な話、映画の興行は赤字でも、本の売上で補えるなら、映画を作る意味はあります。映画単体の採算ラインでは撮れなかった映画も撮れるようになりますし、制作費の規模自体が拡大するわけです。角川春樹は映画人ではなかったからこそ、新しいビジネスフォーマットを提示することが出来たのです。

角川映画の嚆矢は『犬神家の一族』ですが、『人間の証明』『野生の証明』と大作を毎年制作しました。この頃は、映画になりやすい原作を選んでいましたが、本を売ることも目的のひとつなので、原作になる本は長ければ長いほどいいわけです(それだけ売れますから)。80年代にアニメーションで映画化した『幻魔大戦』は作品の長さで選んだきらいがあります。

角川映画はテレビCMをどんどん流し、サウンドバイトなコピーは流行語になりました。『人間の証明』で言えば「母さん、僕のあの麦わら帽子、どうしたんでしょうね」です。続く『野生の証明』のキャッチフレーズが「お父さん怖いよ。何かが来るよ」でした。「母さん」の次は「お父さん」なのでしょうか。これは劇中、薬師丸ひろ子が演じる少女のセリフのままです。

 

薬師丸ひろ子は『野生の証明』の一般オーディションを経て、デビューしています。当時14歳、中学2年生です。どういうつもりでオーディションに応募したのかは分からないのですが、当時東京在住の女子学生にとって、あまり深い意味はなく、応募したのかも知れません。と言うのは、『野生の証明』で名を売ってからも、高校に進学するまで、薬師丸の芸能活動は抑えたものだったからです。当人も親も、深く考える間もないまま、日本中の喧騒に巻き込まれていった、その中で「普通」であることを一生懸命守ろうとした、そういう感じです。

アイドルが映画に出ることは多いのですが、薬師丸の場合は映画に出た後にアイドルになっています。その映画もアイドル映画ではなく、日本映画界が渾身の力を込めた大作『野生の証明』で、監督もスタッフもキャリアがある人たちで、共演は高倉健という、新人のデビュー作品としてはこれ以上はないほど、グレードの高い環境でした。おそらく薬師丸は今もってデビュー作ほどの環境に恵まれた現場は他には知らないでしょう。

彼女は日本映画界の最後の王道を通って女優になった人です。アイドルとしてデビューしたわけではありませんが、彼女は日本中に知られ、彼女の台詞も日本人なら誰でも知っているまでになりましたから、そうなってみれば彼女は角川映画の資産です。彼女と言う資産をどう展開するか、それがその後の角川映画の課題になりました。

薬師丸は学年で言えば松田聖子よりは3学年下になります。けれどもデビュー自体は2年早い。80年代と言う時代が聖子によって、聖子と共に輪郭をくっきりと明瞭にしたのだとしたら、薬師丸はその前に、登場した人です。70年代の色彩を持っている、だからこそ選ばれた、ということになります。

70年代は学園闘争の時代が終わり、ノンポリティカルな雰囲気が前面に出てきた時代ではありますが、成長がすべてを癒すのだとしたら、その果実がまだ蔓延なく行き渡っていない時代です。国民意識の総中流化が完成する一歩手前、むしろその完成が近かったからこそわずかな差違が表層に反映された時代でもあります。その時代に逢って薬師丸は本当の中産階級が持っていた無意識を象徴する存在でした。

無意識は持てる者の特権です。異端は常に、自分が他と違うことを意識させられます。無意識ではいられないのです。薬師丸には70年代の若い世代、それも東京の山の手の若い世代の無意識が濃縮された形で詰め込まれています。薬師丸は男女の同級生の中で自然にリーダーシップをとる女子の役を多く演じているのですが、そのような存在が無意識に存在できたのは70年代の東京だけだったでしょう。80年代には女子の商品化が進み、いずれの女子も商品としての自分に無意識でいられることは出来なくなるのですが、70年代はまだマルキシズムの残り香のようなものがあって、ある意味、都市部では若い女性の意識がニュートラルであることを許された最後の時代かも知れません。

だから薬師丸にはどこか、連合赤軍日本赤軍の流れみたいなものを感じます。彼女が政治的見解として左翼的なマインドを持っているということではなくて、ノンポリティカルであるがゆえに、マルキシズムの持っていた理想のようなものの流れを維持して、そこから生じた文化的な派生の中に身を置いている、そういう印象があります。

それが以前言った、薬師丸にはジュヴナイル的な匂いがある、というものの正体です。

薬師丸は『野生の証明』以後、言ってみれば角川が彼女の鮮度を維持するために『戦国自衛隊』でカメオ出演させた他は、初主演で本格的に芸能活動を開始したのが、1980年公開の『翔んだカップル』からです。高校2年生になっていました。この『翔んだカップル』は相米慎二の初監督作品でもあり、制作は角川ではなくキティ・フィルムです。やがて90年代にかけてそれぞれのジャンルで主流を担っていく人たち、そういう人たちが80年代最初期のこの時期に、ジュヴィナイル路線で台頭してきた、エポックメイキングな意味がこの今ではほとんど知られていないこの作品にはあります。翌年、相米監督と薬師丸は『セーラー服と機関銃』で再び組むのですが、特に演技指導が厳しいことで知られる相米慎二の洗礼を受けて、それだけに日本映画の最も濃厚な部分を最初から薬師丸は味わったことになります。

今、『あまちゃん』で共演している尾美としのり(主人公・天野アキの父親役)とは『翔んだカップル』以来の付き合いで、尾美としのりもまた80年代日本映画界のジュヴナイルルネサンスの中心にいた俳優です。尾美としのり大林宣彦監督作品にほぼ漏れなく出演していて、大林監督は「彼は私の作品の署名のようなもの」と述べていますが、薬師丸が続いて出演した『ねらわれた学園』の監督は大林宣彦です。

大林監督は70年代後半、ホリプロに起用されてアイドル映画を撮っていますが、80年代以後は角川映画の印象が強い人です。『時をかける少女』は原田知世主演のアイドル映画でありながら、同時に自身の代表作品である尾道三部作の中核をなしているように、相当に監督側に委ねた撮影になっています(だからこそ今なお『時をかける少女』はアイドル映画の枠を超えて傑作として継承されているのですが)。

『ねらわれた学園』は角川映画がプログラムピクチャとして初めて手掛けた薬師丸主演映画です。原作は当時の10年前の世相を背景にしていますが、それだけにジュヴナイルな雰囲気が特に強い作品です。この映画は、大林監督の名を売ると同時に、主題歌の松任谷由実の『守ってあげたい』もヒットしました。松任谷由実の第二次黄金時代のきっかけになった作品です。ただし楽曲の完成度自体は、第二次黄金時代に入る前、むしろ低迷期の方が出来がいいのですが。

この、『守ってあげたい』という楽曲も、ジェンダーフリーという意味において非常にジュヴナイル的です。ここでは女子は守られる側ではなくて、守ってあげたいという主体的な立場に立っています。こうして考えてみると80年代の少女商品化の進行は、供給者としての少女の立場を強めるのと同時に、主体的な消費者としてジェンダーとしての女性の立場を弱めたのではないかという疑いが濃厚になってきます。

私は薬師丸を理系的と言いましたが、薬師丸の映画のキャラクターの10年後、20年後を想像してキャリアのある姿は思い浮かべられるけれども、専業主婦ではおさまりがつかない、そういう印象があります。しかし松田聖子の場合、当人の生き方は別にして、パブリックイメージとして結婚して主婦になって物語にエンドマークがつく、そういう側面を強化した面もあるのではないでしょうか。

 

一般にはアイドルとしての薬師丸のキャリアは続く『セーラー服と機関銃』から始まります。ここから彼女は主題歌を担当することになったからです。

角川映画は主に大作路線を手掛けていましたが、大作では数が作れません。これ以後、薬師丸らを主演に据えて、小品を季節ごとに提供してゆく、そういう手堅く儲ける路線に転化しました。薬師丸にとっては主演映画の連続でしたが、初期の現場環境の完成度の高さに比較すればむしろ規模が縮小した感じもなくはなかったと思われます。

歌手としての薬師丸の特徴は、中音域を含めてファルセットで歌い通すということで、本来のファルセットの意味合いとは異なる用い方をしています。単に高音域をカバーするというのではなく、美空ひばりが「七色の声」と言われるように、歌唱に表情をつけて楽曲としての魅力を強める意味合いがあります。全編をファルセットで歌ったアイドルとしては天地真理がいますが、非常に嘘っぽい。そういう印象があります。薬師丸の場合は幸か不幸かファルセットも地声に近い印象があって、嘘っぽさはないのですが、表情に乏しい分だけ分かりやすい上手さもありません。

上手い下手で言えば、今聴くと異常に上手いなと感じますし、当時も上手いとは思ってはいたのですが、歌唱と世界観が合いすぎて、印象に残らない、個人的にはそういう感じがあります。

鉛筆で例えるなら原田知世は2Hで薬師丸は2B、松任谷由実がそう評したことは以前に述べましたが、薬師丸はわりあい線が太い、それが持ち味であるのに、薬師丸は歌唱では輪郭をぼやかしています。リアリティが無い。歌の題材も10代の少女の不安げな感じをテーマにしているのですから、それが世界観に沿っているというならばそうなのですが、輪郭が細いのではなくて薄い、引っかかるところがないのです。ファルセットは本来、「引っ掛かり」として用いられるものですから、それで押し通すのは、強弱の表情が歌唱から無くなってのっぺりとなってしまうことを意味しています。非日常も常態化すれば日常です。

彼女の楽曲では『Woman~"Wの悲劇"より』が比較的その弊害を免れているのは、歌詞が生々しい情事を歌っているからです。実態が生々しい情事であるからこそ、そこで用いられた詩的な表現が美しく浮かび上がりますし、薬師丸の加工的な歌唱が現実の中のファンタジーにとどめられていて、現実と言う力を持っています。『探偵物語』や『メインテーマ』では、あら、きれいね、で終わってしまう、その傾向があります。

器楽として美しいだけに、表現として弱いのです。

角川映画主演作品で主題歌を薬師丸が歌う、と言うのがアイドル薬師丸の代表的なフォーマットであるとすれば、実はそれに相当するのはシングルでは4曲しかありません。『セーラー服と機関銃』『探偵物語』『メインテーマ』『Woman~"Wの悲劇"より』だけです。『Wの悲劇』を最後にして、彼女は角川映画と角川春樹事務所を離れ、それ以後も、主演映画で主題歌を歌うというフォーマットは続きましたが、そこから先はもう、アイドルとしては取り上げなくてもいいでしょう。

 

あまちゃん』の配役が面白いなと思うのは、80年代の女性のある種の典型が描かれているからです。

天野春子はキャリアにおいて挫折した、しかし挫折したから結婚して子供を得た。

鈴鹿ひろみはキャリアをまっとうした。しかし子供は出来なかった。天野アキに、可能性的にはいたかも知れない自分の子供を投影するしかない。

薬師丸ひろ子には全共闘世代から流れてきたジェンダーフリー的な雰囲気があると指摘しました。それがジュヴナイル的なるものの正体だと。しかし人はいつまでもジュヴナイルにとどまってはいられません。キャリアをとるか、子供をとるか、それがその後の80年代女性に突き付けられた二者択一の選択です。天野春子と鈴鹿ひろみはこの意味においても裏表の関係になっています。

鈴鹿ひろみは薬師丸ひろ子自身をモデルにしている印象があります。

 

歌手になることは難しいのですが、歌手であり続けることはさらに難しい。ほとんどのアイドル歌手はキャリアを重ねるにつれ、歌手業から撤退し、女優に移行しています。ただ、いったん売れてしまえばビジネスとして歌手の方が旨味があるのも確かです。桜田淳子は歌手に早くに見切りをつけて、女優として一応の名声を確立しました。まだそこそこ売れていた時に歌手業から撤退したものですから、もったいないという声もあったのです。映画一本作るのには何百人、何千人が関わりますが、CD制作やコンサートでは関係する人数がはるかに少なくて済みます。それだけ一人頭の取り分が増えるということです。桜田淳子は結婚後、芸能界を事実上引退して、今では彼女の収入で一家が生活しているようですが、歌手には歌唱印税が入りますから、彼女クラスになれば働かなくても一家が生活できる程度の収入は見込まれます。これは役者より歌手が恵まれている点です。

薬師丸ひろ子は元が女優ですから、歌手活動に一区切りがつけば女優に専念するのは当然なのですが、ずいぶん長い間、テレビドラマには出演しませんでした。キャリアの最初期、70年代にはちょい役で出た経験はあるのですが、それ以後、1997年の『ミセス・シンデレラ』までテレビドラマに出演例はありません。テレビドラマと映画の違いは何よりもまずその長さにあります。映画は長くても2時間、テレビドラマはワンクールでも延べで言えば9時間以上になりますから、掘り下げ方が違ってきます。連続テレビ小説では延べで39時間になります。映画が引き算ならテレビドラマは足し算、アプローチも違ってくるのです。

生活のためで言えば薬師丸はおそらくもう働く必要はないでしょう。蓄えもあるでしょうし、歌手として定期収入もあるでしょう。映画に拘って、映画女優としての人生をまっとうする生き方も選べたはずですが、そうはしませんでした。2000年代に入って、薬師丸は積極的にテレビドラマに出演していますが、当人が女優と言う仕事そのものに、別の角度の意味合いを見出したのかも知れません。

薬師丸ひろ子は1991年に玉置浩二と結婚、そして1998年に離婚していますが、恋愛に関する報道が少ない人です。これもジェンダーフリー的な意味合いから来ているのかも知れませんが、玉置浩二と言う人選はいかにも薬師丸らしいと思ったものです。玉置浩二は安全地帯で80年代、日本のミュージックシーンをリードした一人ですが、なまじテレビで売れたために、かえってアーティストとして評価される機会が少ない人ですが、ソングライターとしては(そう、ソングライター、としては)まごうことなき天才の一人です。彼の人となりを知っていれば、なんでまたああいう男と、という疑問が生じなくもないのですが、才能に惚れるタイプの女性もいるものです。ただ、結婚はままならない他人との共同生活ですから、最終的には自分が折れるか相手が折れるか、双方が折れるしかありません。玉置浩二のような人であれば、何よりも自分の才能が大事で当たり前なのですから、当人同士の好みは別にして、自分を押し殺せる人が相手でないと結婚生活は無理です。あれで薬師丸は結婚は無理、自分には要らないと思ったのかも知れませんが、選んだのが一番、劇薬に近いタイプですからね。まだ先の人生は長いのですし、こうと決めつけてしまって人生の幅を狭めて欲しくない、他人事ながらそう思います。

 

最後にもう一度、『あまちゃん』の話をしましょう。あの中で天野春子は「主演が一番楽。全部自分に合わせてくれるので演技力が要らない」と言っています。まさしく真理です。実は薬師丸はデビュー以来ずっと主演、もしくは準主演の形で映画出演を続けてきました。映画『Wの悲劇』ではチャンスを必死に求める下積み女優を演じていますが、公開当時のインタビューでは、「自分はずっと主演だったので、そういう下積みの人たちの心理が分からないところがある。今回演じてみてそう言う人たちって大変なんだなと実感した」と何気なく述べていますが、下積みの人たちからすれば相当カチンとくる発言でしょう。この無意識ぶりが、薬師丸が徹底して主演の人、最初から王道の中でキャリアを積んできた人だと物語っています。薬師丸はずっと主演だったために、演技が上手いとか下手だとか、そういう部分は焦点があてられずに来たのです。海のものとも山のものとも知れない時から相米慎二に鍛えられたわけですから、これ以上贅沢な環境はちょっと考えられません。マリー・アントワネットが少し入っている発言ですが、マリーだって、ハプスブルク家に生まれてフランス王妃になったのは彼女が選んだわけではないので、そこをどうこう言われても困るでしょう。

薬師丸は日本映画産業においてこれ以上は無いという環境でキャリアを築きました。それは反面、彼女自身の役者としての技量に誰も注目してこなかったということを意味します。

今回、『あまちゃん』では演技においては神がかり的な技量を持つ鈴鹿ひろみを演じています。その鈴鹿ひろみが女優として本領を発揮する場面を、薬師丸が演じるという二重構造の中で、演技において卓越した鈴鹿ひろみが演じる姿を演じるという、『』付で切り取られた形で、私たちは薬師丸の演技力のものすごさを目の当たりにしました。それは彼女寄りにあらかじめ作られた数々の主演映画では見られないものでした。

彼女もまた、80年代の遺産の一人なのです。

マスダ80年代女性アイドル論~小泉今日子論(転載)

80年代女性アイドル格付シリーズは英時一がはてな匿名ダイアリーで連載したものです。今回、ブログ開設に伴ってこちらにも転載することにしました。

こんにちは。80年代女性アイドル格付のマスダです。

さて、今日は小泉今日子の話です。と言いながらいきなり関係のない話をしますが、松田聖子を聖子、中森明菜を明菜と呼ぶのに何ら抵抗もなく違和感もないのに対し、それと同じニュアンスで小泉今日子を今日子、薬師丸ひろ子をひろ子とは呼べません。私は聖子と明菜は別格だと述べましたが、これもその一例です。聖子と明菜は、略称として聖子、明菜と呼ぶことが定着している、それくらい広範囲にわたって言及されてきたんだということが分かります。

小泉今日子は愛称がキョンキョンで自称がコイズミでした。愛称で呼ぶのも距離が近すぎるので、これ以降のアイドルについては姓で呼びます。

 

小泉のことを書こうとして数日、多分、私の人生で初めて彼女について深く考えてみました。その結果、分かったことがひとつあります。それは小泉のことは分からない、ということです。試しに考えてみてください。小泉今日子ってどういう人?って聞かれた時に、こういう人って答えられますか?

小泉今日子は三人姉妹の末っ子です。これが男の兄弟が混ざっているとかならまた少し事情が違うのでしょうが、小泉は末っ子気質が極端に出ている感じがあります。実は私も末っ子なので、自分に引き寄せて考えてみれば、甘えん坊、世話を焼かれるのが好きというのは確かにそうなんです。そうなんですが、末っ子は単に我がままというわけでもないんですよね。末っ子同士の話ではよくあることなんですが、親とかからペットの犬などと間違われたことがある、だいたいそういう経験を末っ子は持っています。犬がジョンという名前だったら、末っ子を呼ぶ時に間違ってジョンと呼んでしまったり。犬って夫婦喧嘩していると仲裁に入ってくるんですよね。末っ子にもそういうところがあります。親や他の兄弟の気分や機嫌をいつもそれとなく気にしている、我儘ではあるんですが、要求を出すタイミングをしっかりと見計らっている。そんな喧嘩なんかしないで、もっと僕に構ってよ!と思っているふしがあります。

小泉は誰とでも上手くやれる人です。誰からも嫌われないし、誰も嫌わない。「ザ・ベストテン」の楽屋割などでは小泉がいると重宝したそうです。「ザ・ベストテン」に限らず、他の歌番組でも聖子と明菜は絶対に接触することが無いように、番組進行は細心の注意が払われていたことを「夜のヒットスタジオ」の司会を務めた古舘伊知郎後に明かしています。これに対して明菜は、聖子とは確執なんてない、自分は聖子のファンだと答えていますが、ともあれ当時はそういう注意を払わなければならない空気があったのは確かです。こういうのは美空ひばり島倉千代子のように、当人同士は好意を抱いていても「二大巨頭」みたいな立場に立たされることで周囲がそういう関係を作ってしまうことはありますので、聖子と明菜の場合もそういう面があったのでしょうが、ライバル意識のようなものが全く無かったとも思えません。

聖子と明菜だけではなく、あの人は苦手、あの人は嫌という要望はそれぞれにあったのでしょうから、誰と組まされてもクレームが出ない小泉は、有難い存在だったのでしょう。

これはしらっと言っていますがものすごい才能ですよ。

マツコ・デラックスが小泉と対談した時に、彼女(?)は明菜ファンなのですが、

「明菜が唯一心を許していたのがキョンキョンだって聞いていた」

と述べ、小泉も「まあ、そうね」みたいな受け止め方をしています。82年、デビューの年に、アイドルコント番組「パリンコ学園№1」に小泉はレギュラー出演しています。共演者は松本伊代堀ちえみ、男性陣がジャニーズ少年隊(後の少年隊でレコードデビュー前です)、それに山田邦子コント赤信号が絡むというそういうノリの番組でした。この番組の前の番組は「ピンキーパンチ大逆転」で、柏原芳恵と松本伊代がレギュラーで、ダーティーペアみたいな恰好をして悪を懲らしめる、みたいな話でした。「ピンキーパンチ大逆転」では松本伊代は80年組の柏原芳恵と組んで、「パリンコ学園№1」では82年組の堀ちえみ小泉今日子と組んでいるのですが、松本伊代が82年組と言いながら実際には両者の橋渡し的な、81年組の性格を持っていたことを物語っています。そういう番組にも出ていたので、小泉今日子松本伊代堀ちえみとの関係を悪化させるわけにはいかなかったのですが、松本伊代に友好的でありながら、果たして明菜のような人の懐に入り込むことが可能でしょうか。明菜対伊代の構図に落とし込んで、明菜側につくというなら分かるのですが、どちらとも仲良くやって、それでいて浅薄さを感じさせない、明菜から信頼される、明菜は裏表のある性格には敏感でしょうから、その明菜から受け入れられるというのは至難の業のように思えます。

その難事をさも当たり前のようにやってのける、ここに小泉の非凡さがあります。

誰にでも合わせられるということは自分が無いということです。これは意外かもしれません。一般には、小泉は主張のあるアイドルとして認識されているからです。しかし考えてみてください。主張、すなわち強いキャラクターのある人が、多種多様な企業のイメージキャラクターを同時に務めることが出来るでしょうか。

アイドルの中で、リアルにヤンキー経験があるアイドルと言えば小泉と酒井法子ですが、酒井法子の過去が徹底的に封印されていたのに対し、小泉は「それも私」と隠すことはしませんでした。紅白が終わって、そのまま地元の友達と一緒にバイクで初日の出を見に行って、警察に捕まったのはアイドル時代の話でしたし、それを自ら話したのもアイドル時代でした。ただ、そこには演技はありません。地元に戻ればヤンキーなのも小泉だし、アイドルなのも小泉だし、知的にハイブロウな人たちとお付き合いをしているのも小泉です。全部そこには嘘はないんです。嘘はないんですが、その部分ごとの小泉が部分でしかないために、全体の小泉ではないのも確かです。

ヤンキーと一言で言いますが、小泉の地元人脈の中には少年院に入った人もいるでしょうし、ヤクザになった人もいるでしょう。そういうクラスタと付き合っていて、しかも公言していて、大企業がCMに起用するというのも辻褄があわない話だとは思いませんか。そんな話を公言していてなお、アイドルとしては不良少女路線ではない、スキャンダルにもならない、そんなことってあり得るでしょうか。

小泉が分からないというのはそういうことです。どこにでも属していながらどこにも属していない感じ、目の前の人の話を熱心に聴きながら本質的には影響を受けない感じ、キャラクターはないのに説得力はある、そう言う人は小泉今日子以外にはちょっと見当たりません。

 

小泉今日子のデビュー曲、「私の16才」は1979年デビューの森まどかが歌った「ねぇ・ねぇ・ねぇ」が原曲(標題が違うだけ)のカバーです。

「当時、他のアイドルはポップな可愛らしい曲を歌っていたけれども、この曲は地味だった。今になって歌った方がしっくりとくる」

と小泉は最近そう述べています。続く「素敵なラブリーボーイ」は林寛子の唯一のヒット曲のカバーでしたが、こちらは80年代当時でも古い感じはしましたが、一応はポップな路線です。林寛子は小泉がカバーで歌うに際して「一言も断りが無かった」と言っていますが、おそらく楽曲の著作権はバーニングプロダクションが所有していたのではないでしょうか。バーニングプロダクションは音楽著作権事業に早くから進出した芸能プロダクションで、それが急成長の原動力になりました。他社のアーティストの楽曲著作権も保有していますから、「素敵なラブリーボーイ」の権利を持っていたとしても不思議はありません。

三作目の「ひとり街角」、四作目の「春風の誘惑」も地味な曲で、チャート順位もそう伸びなかったのですが、当時は「8時だよ!全員集合!」や「スーパージョッキー」のようなバラエティ番組でも歌のコーナーがあるのが普通でしたから、アイドルはそういうコーナーに出ていましたので、チャート順位が低くても、小泉の名前は浸透していきました。「私の16才」なんかは最高順位が22位でしたが、当時の中高生ならほとんどが知っているのはそういう事情があったからです。

ついでに当時の背景をかいつまんで説明しておけば、当時はほぼ、学校を出て数年すれば所帯を持つ、女性は家庭に入るのが普通でしたから、社会人が趣味にかける可処分所得はものすごく少ないのが普通でした。今は30歳、40歳まで独身がたくさんいて、AKB48はそういう中年独身男性層の可処分所得に支えられていますが、当時はそういう層自体が存在しなかったのです。ですから勢い市場に占める中高生のウェイトは非常に高く、ボリューム自体もあったので今よりははるかに重要でした。

次の「真っ赤な女の子」から路線を一新してここから火がつきます。

コミックソングと言うか、ネタの要素が強い楽曲とアイドルは実は親和性があって、シブがき隊の「スシ食いねェ!」は一番典型的ですが、あそこまで行かなくてもアイドルがネタ性が強い楽曲を歌うことはしばしばありました。「真っ赤な女の子」から「ヤマトナデシコ七変化」まで、小泉はそういう路線を主に担いました。

「聖子さんと明菜ちゃんがいたから今の自分がある。二人がいたから、そうじゃない路線を探してやって来れた」

と小泉は述べていますが、少女漫画で例えるなら、聖子が「キャンディ・キャンディ」で、中森明菜が「NANA」ならば、小泉は「桜蘭高校ホスト部」です。少女漫画の中に常にコミカル路があるように、アイドルにもその路線はあって、一般的に苦肉の策として用いられることが多いのですが、小泉は意識的にその路線に身を投じた人です。歌唱力などどうでもいいように言われがちなアイドルですが、やはり歌手は歌手であって、長くやっていくためには歌唱力は非常に重要ですし、そういう人でないとトップにはなれません。そのため歌唱力に難がある、少なくとも当初そう思われていた人ほど、歌唱表現意外の要素で補強しようとしてネタ路線に走りがちな傾向があります。

小泉も歌唱で人を感動させるレベルの歌い手ではないのですが、ここでも小泉はニュートラルな感じで、上手いとか下手とかそういうことがそもそも気にならないタイプですね。中山美穂は器楽としてそもそも声量が無いので、彼女は当初はネタ路線で売り出されていました。

歌手として特に上手い方ではなかった小泉と中山が90年代にメガヒットを連発するのは、別の考察が必要です。本道の歌手としては弱みがあった二人はキャラクター性を強化することでセールスポイントを強めましたが、それが結果的に90年代に支持される基盤となった、ということでしょうか。

上沼恵美子が中山美穂を評して、「デビューの時からずっと売れている。普通は浮き沈みがあるのに、彼女にはない」と言っていますが、同じことは小泉にも当てはまります。

 

小泉のアイドル時代がいつまでなのか、その線引きが難しいのは小泉がずっと売れているからです。

「歌手一年、総理二年の使い捨て」と言いますが、アイドル歌手は普通は一年、保って数年で売れなくなります。百恵、聖子、明菜の3人のトップアイドルが、特に別格の印象が強いのは、売れなくなる前に結婚や事件などでキャリアに区切りをつけたからです。セールス的には百恵よりもピンクレディーの方が遥かに「別格」でしたが、ピンクレディーは落ち目になってもだらだらと数年、活動を続けたために敗残の印象も残してしまいました。

アイドルファンではない、普通の人にとっては近藤真彦の「愚か者」以後の曲は知らないでしょうし、田原俊彦は「抱きしめてTONIGHT」で"オシマイ"でしょう。小泉の場合はセールス上の好調が12年以上続いているため、区切りがつけにくいという事情があります。1984年の「渚のはいから人魚」と1985年の「なんてたってアイドル」では意味が違います。もちろん1993年の「優しい雨」は全然意味が違います。

アイドル時代が、アイドルを相対化した「なんてたってアイドル」で一つの区切りをつけたのだとしたら、それ以後の彼女は、誰によって、どういう理由で、支持されていたのでしょうか。小泉への支持は、経済的な支出を伴っています。90年代に入って、ミリオンを2曲輩出し(その2曲の合計ではトリプルミリオンを達成しています)、映画も好調、何よりもCM女王として圧倒的な影響力を誇っています。単に好感度が高いから、CMに起用されているというだけではなく、小泉を起用すればそれは爆発的なセールスに直接結びついています。

圧倒的な支持はある。不思議なのはその支持層が全然見えてこないことです。見えてこないと言いながら考えてみたら私自身、小泉の「消費者」のひとりでした。彼女の「オールナイトニッポン」を聴いていましたし、ポストアイドル期のCDも何枚か購入しています。これはアイドル時代の映画ですが、「生徒諸君!」も劇場に観に行きました。ではファンであったのかと言えば、もちろん好きではあるけれども、聖子や明菜、南野陽子に対するほどの思い入れはありません。ファンとまではいかないけれど、非常に強い好感度がありました。しかしそれだけで、人は消費行動に走るのでしょうか。

例えば、ベッキーは最近では特に好感度が高いタレントですが、それだけで彼女のCDが売れることはありません。90年代、同時期にアイドル出身としては例外的にセールス上の好調を維持した中山美穂の場合、溢れ出るようなフェミニンな魅力があって、女性からロールモデルとして支持されていました(フェミニズムが当然になったのを前提にして、同時に女性性を担保したいという女性の欲求を投影する象徴になった、ということです)。小泉の場合は、その魅力の実態が捉えにくいように感じられます。

小泉は先端音楽の動きに敏感でハウスミュージックもいちはやく取り入れていますが、そういう層が果たして小泉をアーティストとして消費するかは疑問ですが、その周辺部にはイケテルとして消費を促す要素にはなったでしょう。小泉の特徴は記号的、ということで、他のアイドルの場合、そのアイドルのファンたちがアイドルの何に思い入れを抱いているか、わりあい明瞭です。例えばLGBT(性的マイノリティ)の人たちで中森明菜のファンは多いのですが、明菜の持つ「孤高性」に強く反応しているのは想像に難しくありません。それだけに、強い思い入れがあるものですが、小泉に対してはアイドル時代から、ポストアイドル期になってからもそのような思い入れを見出すことは出来ません。

私は彼女を評して、「そこそこ」の人だと言いました。これは単に技量的なことだけを言っているのではなく、中核を持たないということを指して言っています。愛情と好感は違います。小泉への支持は愛情にまではいきません。行きませんが相当に強い好感を広範囲に長期に及んで維持している、そのこと自体に小泉のキャラクターがあるのです。これは単に「人がいい」というような話ではないのです。

善人で言えば、例えば坂本九は善人の代表的なキャラクターでしたが、裏が見えないこともないですし、ある種の美意識から、むしろ坂本九を激しく嫌う人たちもいたでしょう。小泉は全方位に好感度を維持しているのが特殊なのです。こう言う人は他にはちょっといないですね。ある意味、一番、非人間的なアイドルです。

マスダ80年代女性アイドル論~中森明菜論 (転載)

80年代女性アイドル格付シリーズは英時一がはてな匿名ダイアリーで連載したものです。今回、ブログ開設に伴ってこちらにも転載することにしました。

80年代女性アイドル格付

http://anond.hatelabo.jp/20130821065806

を書いたマスダです。

今日は中森明菜について。

(追記)

こちらを見落とされている方が結構いらっしゃるようなので。

マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子

http://anond.hatelabo.jp/20130825215309

今回は松田聖子論に続く「第2回目」です。「80年代女性アイドル格付」の順位順に書いています。次回は小泉今日子です。

 

松田聖子もずいぶん批判されましたが、今になってみれば、いったい何が批判されたのか、よく分からないところがあります。恋多き女性という印象もありますが、婚約・結婚を含めて彼女は4人の男性と法的なパートナー関係を結んだ経験がありますが、いちいち結婚という形をとりたがるのは彼女の価値観の基盤が実は案外保守的だからです。パートナーに対して彼女が求めるのは第一に学歴を含む社会的な地位で、判断基準は「父親が認めてくれそうな男性」というところにあります。郷ひろみは芸能人の中ではインテリ志向であるし、大学中退で英語も話せるので、聖子は父親の眼鏡にかなうと思ったのでしょうが、結果的には無理で、それで両者の関係は破綻したのでした。聖子はそういう時には、しょせんは他人である恋人よりは父親を選ぶ女性です。

久留米に在住していた高校時代、彼女は久留米大付属高校の男子生徒と交際していたという説と、暴走族の男性と交際していたという説がありますが、後者はまず考えられません。父親が許すはずがないからです。

聖子に対する批判は「女性が主体的に取捨選択をする」という生き方に対する批判で、そういう生き方が一般的になった現在、松田聖子批判は一体何だったんだろう、という思いがします。人格や対人関係において聖子が批判されることは少なく、あるのは分かりやすい嫉妬、あるいは批判者の自分の価値観において相容れない部分があるからでしょう。聖子に対する批判者として有名だったのは(後に和解していますが)和田アキ子で、基本構造はスケバンがぶりっ子を毛嫌いするという分かりやすい形をしているのですが、和田アキ子は実はそんなに単純な人ではなく、ホリプロを代表するタレントとしてホリプロの経営者的な視点で批判を強めたり弱めたり、批判しなかったりしています。かつてホリプロに所属し、後に独立した石川さゆりに対して、独立後ににわかに批判を繰り返したのもその例です。大手芸能事務所のタレントを批判することは基本的にはしない人なのですが、サンミュージック所属タレントは例外で、サンミュージックの創業者の相澤秀禎氏がホリプロとたもとを分かって、ホリプロをいわば「裏切って」独立したことから、ホリプロとサンミュージックの間には静かな確執関係があります。和田アキ子による聖子批判は基本的にはその文脈で理解されるべきでしょう。

研ナオコはパーティーで聖子が挨拶をしなかったことについて、「私はあんたたちとは格が違うとでも思っているのかしら」と揶揄していますが、実際に格が違うのですから、これは現実を受け入れられない研ナオコの側の問題です。研ナオコは悪口しか言っていないと言っていいほど、この種のレベルの批判を全方位的に繰り広げていますが、そういう人なんだというしかないですね。

聖子は時代の象徴になってしまったため、時代に対する批判までをも彼女は引き受けざるを得なかったのですが、他の女性アイドルで批判されることが多かった人と言えば、第一に中森明菜で、第二に南野陽子です。ふたりとも弱小事務所に所属していたというところに共通点があります。

けれども、南野陽子はともかく、明菜への批判は、単に事務所が小さかったからでは済まされない、執拗で熱意のこもったものでした。中森明菜はそんなに問題がある人なのでしょうか。

先日、松本伊代堀ちえみがバラエティ番組で、82年組は仲が良かった、中森明菜はそうでもなかったけれど、という話をしていました。明菜とは仲が悪かったんですかと話を振られて、堀ちえみがフォローしようとして、「仲がいいも悪いも、あんまり接点が無かっただけなんですよ。だから好きも嫌いもないんですよ」と言ったのに対して、松本伊代は「私は嫌いなの」と明言しました。30年以上前のこと、しかも相手は現在、病気療養中の人に対してああまで悪意をむき出しにして言うほどのことが果たしてあったのでしょうか。

82年組の中で中森明菜が孤立していたのは事実です。明菜と親しかったのは小泉今日子くらいで、初年度の賞レースが終われば、82年組の中で歌番組の常連として生き残ったのは明菜と小泉今日子くらいでしたから、明菜としては松本伊代に嫌われても何の実害もなかったでしょうが、松本伊代がかなり執拗に激しく明菜を嫌っていたのは数々の証言があります。

松居直美は、彼女もスタッフに対する暴言などで評判があんまりいい方ではなかったのですが、「明菜とは親しくするな」と松本伊代から言われたことを明言しています。そうは言っても明菜は普通にいい子だったので、そんな助言は無視した、と言っていましたが。松居直美欽ちゃんファミリーだったので、松本伊代の意向など無視できたのです。

松本伊代は区切りでは82年組で、実際のデビューは81年の10月であり、82年組の他のアイドルにとっては既にスターであり、先輩格であったので、82年組の中では自然とリーダーシップをとる存在になっていました。明菜が孤立したのは松本伊代の意向によるところが大きかったのは確かですが、明菜が自ら壁を作るような面があったのも確かでしょう。同じく批判されがちなアイドルであった南野陽子は、後から事情を聞けばもっともな事情もあり、それが彼女のパーソナリティの問題ではない傍証としては友人も非常に多いことが挙げられるのですが、明菜には誰とでもうまくつきあえる小泉今日子以外には友人と言うような人はいませんでした。

新田恵利は歌番組で明菜と一緒になった時、挨拶に行ったら無視されたのだけれど、別のパーティー会場であった時、やたらなれなれしく親しく接してきたのでその豹変ぶりが怖かったと言っています。社会人一般の社交として明菜の態度が独自基準で動いている、少なくとも一般的ではないのは確かでしょう。

ただし彼女は仕事上のことは別として誰かを攻撃したり、悪口を言ったりするようなことはしていません。仮に「性格に難がある」のだとしても、彼女が関心があるのは自分の生き方に限られていて、他人にどうこう干渉することは一切ありません。明菜を見ていると、果たして「性格がいい」とか「性格が悪い」とは一体何なのだろうと考えさせられます。他人のことにあれこれ指図するような真似もまた性格がいいに含まれてしまうのか。ひとつだけ言えるのは、明菜のことが嫌いなら嫌いで放っておけば、何の害ももたらさない人だと言うことです。誰かを攻撃するような真似はしないのですから。

ザ・ベストテンのプロデューサーはこの番組を心から愛して、リハーサルから熱意を以て付き合い、他の歌手が歌っている時も熱心に聴いていたアイドルとして、中森明菜南野陽子の二人の名を挙げています。80年代アイドル黄金時代を心から愛していたふたりのアイドル、私は単に視聴者として二人を見ていただけでしたが、確かにこの二人にはアイドルとしての「生真面目さ」が際立っていたように思います。

 

中森家のルーツはどこにあるのでしょうか。今一つそこに触れた文章は無く、今のところ不明ですが、中森家のありようを見ていれば、社会からやや孤立している印象を受けます。中森明菜は東京都清瀬市の出身ですが、土着の家系なのかどうか、それが気になります。と言うのは、田舎から出てきて、転職を繰り返したような人の場合、地縁、血縁、会社縁が切れている人が多く、創価学会はそういう人たちを対象にして成長してきたのですが、宗教によるつながりもなければ、家族でこじんまりとまとまっているケースが多いからです。「亡命者の家族風景」であり、コルシカ島と言う故郷を失ったボナパルト家が排他的な家族的結束を強めたように、中森家にはどこか亡命者のマインドがあります。

明菜には友人が出来ないのではなく、作らない、通り一遍の社交以上の価値を見出さないのは、家族という単位が直接世界と向き合っている、そういう世界観を持っているからです。明菜は適性に合った役ならば、天才的と言うほどの演技を見せる、そういう才能もあります。1998年のテレビドラマ「冷たい月」ではかつて自分の夫を結果的におとしめた専業主婦に友人のふりをして近づき、その主婦の家庭を乗っ取って崩壊させる女を演じていましたが、おそろしいほどのはまり役で、役と役者が同一視されてしまう危険すら感じさせるものでした。その後、明菜は役者業からは遠ざかったので、結果的にその懸念は杞憂に終わりましたが。1992年に放送された「素顔のままで」では安田成美演じる女性と親友になる女性を演じていましたが、最終的には安田成美演じる女性の子を、自分の家庭的幸福を捨てて引き取って育てるという結末でした。「素顔のままで」は友情を描いた作品ですが、友人を必要としない明菜には一見合わない役のようですが、「非常に親しい人は友人と言う中間的な領域ではなく家族に組み込まれる」という中間的な領域の欠如した明菜の世界観に沿った役でした。

90年代の終わりにトーク番組に出場した時、明菜は許せない相手として「共演者にはそういう人はいないんですが、スタッフにはいますね」と述べています。松本伊代からどれほど冷たくあしらわれようとも、松本伊代の側がどれほど強く明菜を意識していようとも、明菜には伊代は視界にも入っていないことが伺えます。家族ではないからどうでもいい存在なのです。スタッフはある意味、家族の周縁部にある存在で、ここに対して仕事をしてゆくうえで中森明菜は無条件の理解を当然のこととして要求したのではないでしょうか。それが軋轢になったのでしょう。

 

中森明菜は「スター誕生」末期に出てきた人で、小泉今日子もほぼ同時期にその番組から輩出されています。両者とも圧倒的な高得点で合格したので、複数の選択肢の中から所属事務所を選べる立場にありました。小泉今日子は最大手のバーニングプロダクションを選びましたが、明菜は弱小事務所の研音を選んでいます。研音はいまでは大手も大手、最有力の一画を占める芸能事務所ですが、当時はめぼしいタレントがいなくて明菜に社運をかけていました。明菜が研音を選んだ理由は定かではありませんが、おそらく収入等の条件が他よりも良かった、それで親がそこを選んだのではないかと思います。

アイドルの収入ですが、驚くほど少ないのが実態です。南野陽子は、「ベストテンで1位をとっていた頃でも月収が3万円だった。あんまりだろうと直談判したらケタが二つ上がった(100万円台になった)」と述べていますし、堀ちえみは「自分もしばらくは3万円くらいで親から仕送りをしてもらっていた。スチュワーデス物語がヒットしてようやく月収30万円に上げて貰った」と述べています。

明菜は早い段階で親兄弟に店舗を持たせるなどの経済的支援をしていますから、経済的な条件が他のアイドルよりは恵まれていたのは確かでしょう。ただし弱小事務所に所属したハンデはあって、賞レースでは明菜は初年度はほぼ無視されています。デビューの年にはすでに「少女A」をリリースして、メガヒットもあり、82年組の中でもトップの実績を示していたのですが、その年のレコード大賞では優秀新人賞も得ていません。最優秀新人賞を獲得したのはシブがき隊で、優秀新人賞を得たのは、松本伊代堀ちえみ、石川秀美、早見優でした。今から見れば冗談みたいな結果でしたが、このことは相当な物議をかもし、いくら賞が事務所の力関係が反映されると言っても、中森明菜を無視しているようなら上辺だけの公平さすらないではないかと言って、作詞家の阿久悠は審査員を辞任しています。

 

明菜は不良少女路線で売り出されたと思っている人は多いのですが、実際にはそうでもありません。明菜の本質は「非」であって「反」ではないからです。独立しているということは何か支配的なコミュニティにアンチであることを意味しません。アンチコミュニティにおいても明菜は非であることによって孤立するでしょうから。明菜は聖子を芸能として愛でていますが、ただ彼女とは同じことは出来ないのでした。

デビュー作「スローモーション」は来生姉弟の作詞作曲ですが、この「非」の部分を上手く捉えています。明菜には主張はないのです。しかし主張がないというのは非常に分かりにくいので、「少女A」では流通しやすい不良少女の側に寄り添った装飾がほどこされています。

このことは、明菜には楽曲の世界観と彼女のキャラクターにはあまり関係が無いことを示しています。もちろん聖子的な世界観を歌えば、無理があるのですが、それは聖子の楽曲の世界観がニュートラルではなく、それなりの主張をはらんでいるからです(何を「可愛い」とするかはそれ自体が価値判断の表明です)。

聖子の曲、に対して明菜の歌、とも言えます。これは聖子に「歌う」能力がなく、明菜の楽曲に楽曲としての質が担保されていないということを意味しませんが、極端に言えばそういうことになります。聖子は彼女の歌唱力で以て楽曲を表現するのです。明菜は楽曲の世界観に拘泥せずに自身の歌唱自体を表現するのです。ですから明菜の楽曲はむしろ世界観は薄い方がいい、ステレオタイプな理解され易さがあればそれでいい、ということになります。極論をすれば架空言語で歌った方がむしろいい、ということです。明菜には異国風の楽曲が多いのですが、実際、意味が分からない歌詞がしばしばサビで出てきています。

明菜の歌唱の本質は強弱にあります。そのコントラストが激しすぎて、音割れを防ぐために強の部分に合わせると弱の部分では何を言っているかさっぱり聞こえないということもしばしば発生しています。強弱はむろん、歌詞の流れに沿っていた方がいいわけで、おおむねそういう構成の作詞になっています。逆にそれをやり過ぎると、「聞こえない」が発生してしまうわけです(「難破船」がその例です)。「DESIRE」が明菜にとって代表曲であり、一番資質にあっているのは、尖った表現が全編にちりばめられていて、弱の強調をやり過ぎていないからです。彼女の力強いロングトーンが、弱が強調されていないために強の中の強として印象付けられる構造になっています。

「スローモーション」でも声は幼いのですが、「やはりあなたと一緒にいたい 一言 書きあぐね」の部分で、既に彼女の歌唱の本質を見せています。(失礼しました。これは「トワイライト」の一節でした)

中森明菜の楽曲には歌唱を見せる工夫は必要なのですが、それはプロの作詞家、作曲家ならば心得ていることです。統一的な世界観のようなものは必要が無い、むしろあってはならないのですから、松田聖子プロジェクトに匹敵するようなサポート体制を明菜は必要としませんでした。

様々な作家が彼女に楽曲を提供していますが、聖子における財津和夫細野晴臣松本隆大瀧詠一佐野元春松任谷由実のような「企画者」はいませんでした(それにしてもちょっとあり得ないような豪華な面子です)。

ある評論家は、松田聖子のプロデュースにおいては基本的に松本隆がひとりで担当した、だからいろんな面を出そうとして聖子の楽曲には多様性がある、しかし中森明菜は複数の人がそれぞれ別個に担当したため、マスイメージの中森明菜に沿った同系統の楽曲ばかりになった、と述べています。私も基本的にはそういうことなんだろうなと思います。

 

成功者の家族で平常心を維持できない人は結構います。大きなマネーが動くだけに、親と子は別人格、別世帯、別会計ということが分かっていない、仮に頭で分かっていても「これくらいしてくれてもいいのに」となってしまう人は多数います。アイドル歌手に限った話ではありません。子供への影響力が自分の経済力とイコールになるのですから、子供の結婚や独立を嫌う人もいます。名前は出しませんが、そういう例はたくさんありますよね。浪費型には娘に対する母親が陥ることが多く、管理型には父親が陥ることが多いようです。男性芸能人の場合は、結婚は「嫁を取る」という形にまだまだなりやすいので、結婚を機に別世帯であることをはっきりさせるのもやりやすいのですが、女性芸能人の場合は、私のものである娘、うちの財産である娘を結果的に婚家と争って取り合う形になりやすく、娘は夫をとるか実家をとるかの選択を迫られることになります。

 

ここで中森明菜が傾倒を見せた近藤真彦について考えてみましょう。

近藤真彦は男性芸能人としては、意外かも知れませんがわりあい人格者です。これは彼が早いうちからトップアイドルであったことを踏まえれば意外でもあります。女性アイドルと較べても男性アイドルは「貧困家庭出身」「孤児」「芸能界以外では使い物にならない不良」の割合が当時は大きかったのです。これは男性が一家の大黒柱にならなければならないという当時の当たり前の感覚からすれば、芸能界に関係して、売れればいいものの売れなかったらただの低学歴者になってしまうというプレッシャーがあったので、失うものが無い人でなければ芸能界に進むと誰よりも当人がふんぎりがつかなかったからです。もちろんそのプレッシャーは女性にもありましたが、嫌な言い方かもしれませんが当時的な感覚で言えば最終的にはお嫁さんになれば潰しがきく女性に対して、男性にはその逃げ道はないと言う事情もあります。

好条件でデビューを果たした、それなりに売れていた男性芸能人であっても芸能活動は学生時代の部活みたいなものと割り切って、進学、就職して行った人もいます。例えば映画『野菊の墓』で相手役に選ばれたKさんや、『時をかける少女』や『天国にいちばん近い島』などで相手役を務めたTさんなどが挙げられます。

近藤真彦は早くに芸能界にデビューしたのに、欠損家庭(これも嫌な言い方ですが)の出ではなく、親御さんもお子さんの名声を利用するようなタイプではなかったことを考えれば、まああの年齢相応に生意気ではありましたが、誰からも可愛がられる、「まともな家庭の子弟」でした。ジャニーズ事務所には男性アイドルを独占すると言う基本戦略がありますから、他社の男性アイドルに攻撃的で、それを察して他者の男性アイドルや男性グループを揶揄したり、意地悪をするジャニーズタレントもいます。沖田浩之も標的にされましたがそれをしたのは近藤真彦よりも下の世代(誰とは言いませんが)で、近藤真彦はそういうことには関わっていません。

明菜に対しても陰口をたたかれがちな明菜を普通に人間として評価する発言をしてかばっています。明菜は近藤真彦のスノビッシュなところがない部分を自分と同じ世界の人と感じていたのでしょうし、人間的にきちんとした部分に魅かれたのだろうと思います。そして彼を通して、自分の家庭が「きちんとしていない」ことを自覚したのでしょうし、そのきちんとしていない度合いは明菜がビッグネームになるにつれてますます大きくなっていったのでした。

「兄弟とかに援助をして店とかを持たせても、結局、自分で苦労して稼いだおカネじゃないからすぐに潰してしまう」

と明菜は後に家族と絶縁状態になって、当時を振り返ってそう述べています。研音は明菜の家庭を抑えれば明菜を拘束できると考えていましたから、請われるがままに明菜の親にお金を渡して、それを明菜が後で知るということも頻発していました。

「そういうお金のやり取りを通して事務所の人たちと自分の家族だけがどんどん親密になってゆくのに、自分の意向がないがしろにされて自分だけが疎外されていった」

明菜はそう述べています。

芸能人になると言うことはある程度そういうことです。商品になると言うことです。でも人間は商品ではないのですから、人間らしくあり得る逃げ場所が必要になります。家庭がまともであれば家庭が普通はその役目を果たすのですが、芸能事務所と家庭が結託することによって、明菜からはその逃げ場所が失われてしまいました。繰り返しますがこう言う例は決して珍しい例ではなく、まあ大抵はそうだったと言えるでしょう。前の世代は日本が貧しい時代に生まれ育った人たちだったので、そうやって親兄弟を養うのは当然と思ってそれを苦しいと思うこともほとんどなかったのかも知れません。中学を出たら集団就職で都会に出て、むしろ実家に仕送りをするのが当たり前だった時代であれば、家族のために犠牲になるのは当たり前すぎて問題と認識されていなかったでしょう。美空ひばり江利チエミ吉永小百合もみんなそうです。しかし明菜は先進国日本に生まれ育った世代であり、子供の権利条約云々ではありませんが、ボナパルティズム的な家族的結束が虐待と認識されるようになった日本において、その時代的な常識から家族に対して批判的にならざるを得ませんでした。

その結果、彼女は家族と絶縁し、友人もいなければ師もいない彼女にとっては唯一頼れる「社会的存在」であった近藤真彦に依存を強めていったのでした。近藤真彦も明菜に対して女性的な魅力を感じていなかったわけではないとは思いますが、少年らしい素朴な正義感から接した割合も大きかったのだろうと思います。しかしどんどん関係が深まって、伴侶とするかどうかまで突きつけられた時に、そこまでは彼女の人生を背負えないと思ったのではないでしょうか。無理からぬことです。

そして破綻して、ああいう事件が発生してしまいました。

彼女のアイドルとしてのキャリアはいったんそこで終止符を打ったと見ていいかと思います。「スローモーション」から「LIAR」までシングル23作品はすべてチャート上位に入り、80年代を代表する歌姫となりました。

 

今から見ても、彼女のパフォーマンスは歌唱、ダンス、衣装、スタイル、すべてにわたって芸術的といっていいほど洗練されています。細部にわたるまで彼女自身の意向が反映されていて、90年代以降にも類例がない、完成度が高いステージを彼女は提供しています(当時はそれが余りにも普通であったので、かえってその価値に気付かない人がたくさんいました)。単に時代の鏡ではなく、日本芸能史における古典として、松田聖子中森明菜のパフォーマンスは次世代以後に継承されてゆくべきものです。

マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子論(転載)

80年代女性アイドル格付シリーズは英時一がはてな匿名ダイアリーで連載したものです。今回、ブログ開設に伴ってこちらにも転載することにしました。

80年代女性アイドル格付

http://anond.hatelabo.jp/20130821065806

を書いたマスダです。80年代女性アイドルについて語り倒したくなったので、順繰りにそれぞれの女性アイドルについて話してみたいと思います。

今日は松田聖子について。

 

松田聖子のデビュー曲は「裸足の季節」、そのB面曲は「RAIMBOW~六月生まれ」と言う楽曲です。

どういう事情でこのB面曲が選ばれたのか、ちょっとした謎ですね。デビューシングルと言えば、売出し中のアイドルにとっては名刺みたいなもんじゃないですか。そのB面曲が「六月生まれ」だったら、普通は、ああ、この子は六月生まれなんだなあって思いますからね。でも実際には聖子は3月10日生まれ、早生まれなんですね。この早生まれ、ということを初期の聖子は最大限に活用しています。

三作目のシングル「風は秋色」はB面曲(扱いは両A面扱いですが)が「EIGHTEEN」で、聖子の初期の代表曲の一つです。

あーここでついでに言っておきますが、聖子のシングルのB面はA面よりもむしろ優れた楽曲が多くて、ファンから強く支持されているのもB面曲が多いですね。何といっても「SWEET MEMORIES」が「ガラスの林檎」のB面曲なんですから。主演映画の主題歌だった「花一色」や「夏服のイヴ」がB面だなんて、他の歌手では絶対にありえないですよね。

で、「EIGHTEEN」を歌っている時、彼女は実際に18歳だったのですが、早生まれなので学年で言えば、「19歳」なんですよね。山口百恵は19歳の時には「プレイバックPart2」を歌っていました。そして21歳の時に引退しました。山口百恵が脱アイドル路線を進み、既にその前年に嫁に行く娘の母への気持ちを「秋桜」で歌っていたことを踏まえれば、普通はもうアイドル路線から転換するような年齢で、聖子はアイドルを開始したということになります。

既に高校を卒業して、社会人としてアイドルデビューをした松田聖子でしたが、「高校三年生の年齢である18歳」を強調することで、ファン層である中高生との乖離を極力狭めようとした、「EIGHTEEN」という楽曲にはそういう意図が感じられます。

 

聖子は高校1年生の時にミスセブンティーンコンテストで歌唱力を認められ、CBSソニーが直ぐにでもデビューさせたいとアプローチをかけます。彼女はサンミュージック所属でしたが、レコード会社が発掘したアイドルなんです。CBSソニーとサンミュージックが綱引きをしたら、聖子はあくまでソニーのタレントです。このことがアメリカ進出の際、亀裂となって生じるのですが、それはまた別の話です。

聖子のデビューが遅れたのは、父親を説得するのに2年を費やしたからです。14歳でデビューした山口百恵らはさすがにデビューが早い方ですが、アイドルは普通は16歳前後でデビューします。田原俊彦は19歳でのデビューでしたが(学年で言えば実際には20歳でのデビュー)しばらく年齢を詐称していたように、18歳以降でのデビューはアイドルとしては年齢が立ちすぎていて、著しく不利です。

いいよいいよで済ます家庭で育っていれば、聖子のデビューは石野真子と同期、1978年になっていたはずです。2年デビューが遅れたのは後から見れば実にラッキーだったのですが、おそらくその2年間は聖子の人生の中で一番悶々としていた時期だろうと思います。

 

娘が芸能界でデビューしたいと聞いて、まずまともな父親なら反対が先に来ると思います。決して内実は美しい世界ではありません。暴力団などに食い物にされている人もいます。横目で見ていて、そんなことに娘が関わって欲しくないとまともな父親ならばそう思うのではないでしょうか。娘が芸能界に入りたいと言って、これで一儲けが出来ると思うなら、いいよいいよと父親は言うでしょう。問題は果たしてそう言う父親がまともな父親かどうかです。

芸能界に入る時に父親に反対されたというアイドルほど、荒波を乗り越えてタフなように見えます。それは最後の砦である家族を信じられるからです。家族を信じられるのは家族がまともだからです。松田聖子にはこの、「父に愛された娘」としてのタフネスがあります。それは中森明菜が結局手に入れられないものでした。

 

デビューが遅れて良かったのはまず第一に黄金期にあった山口百恵キャンディーズ、ピンクレディーらと競合せずに済んだことがあげられます。本来、ポスト百恵の世代は、石野真子、榊原郁恵、大場久美子らが担う位置にありましたが、彼女らは既に聖子がデビューした時には息切れしていました。78年にデビューしていれば聖子もそうなった可能性があります。聖子と百恵の活動時期は殆どかぶっていなくて、百恵の引退直前に聖子が挨拶に行った、くらいの関わりです。百恵が不在になって、いなくなったのは百恵だけではなく、めぼしい女性アイドルたちもそうでした。80年組が豊作の年と言われるのは、女性アイドルたちが不在で、80年組がまたたくまにその空間を埋めたからです。

80年組が活発な活動を続けていた81年には、逆に女性アイドルが出てくる余地が無くて、81年組は近藤真彦竹本孝之沖田浩之などの男性アイドルは輩出されましたが、女性アイドルには本当にめぼしい人がいません。伊藤つかさだけですね。

70年代は60年代の延長ですが、80年代は新しいステージに入りました。戦争を知らない子供たちどころか石油危機を知らない子供たちが青年期を迎え、先進国の日本しか知らない若者が世相をリードするようになりました。

70年代末期には、海外ご当地ものの楽曲が数多く出ました。「とんでイスタンブール」とか「サンタモニカの風」とかですね。海外ご当地ものは聖子も数多く歌っていますが、日本の若者は行こうと思えば気軽にそこへ行けるようになっていたのが70年代と異なっています。ハワイやグアムではもはや歌の舞台には陳腐になっていて、聖子の海外ご当地ものはより遠くへ、穴場へ行く傾向にありました。グアムではなくセイシェル、ロスではなくマイアミ、カリフォルニアのディズニーランドではなくニューヨークのコニーアイランド

聖子の歌には、特に初期には憂いのようなものはなく、ふわふわとしたポップな高揚感がありましたが、80年代はそれをファンタジーではなく、普通のことにする時代でした。あの時代の日本人はすべて、準超大国であった日本という国家を背負っていたのです。

聖子はその象徴になりましたが、それは78年にデビューしていればたぶん不可能なことでした。

 

「裸足の季節」がスマッシュヒット、「青い珊瑚礁」が大ヒット、続く「風は秋色」という地味な曲が80万枚を売り上げたことから(今の感覚ではたぶん倍の枚数で考えればちょうどいいんじゃないかと思います。だから160万枚)、聖子なら何でも売れることがはっきりとしました。

続く「チェリーブラッサム」は最初のターニングポイントになった楽曲です。続いて「夏の扉」「白いパラソル」と財津和夫が作曲を手掛けますが、財津和夫の流れからJ-POP原理主義とも言うべき、「はっぴいえんど」人脈とのつながりが出来て、松田聖子の楽曲はアイドルの枠を超えて、日本のミュージックシーンでもにわかに実験的な色彩を強めていきます。アルバム「風立ちぬ」はこの時代、もっともアグレッシヴなアルバムであり、日本音楽史上、聖子の楽曲は単に売れている、という以上の意味を越えて特筆すべきものになりました。売れているから何でもできたのです。

チェリーブラッサム」は初期シングルの中では最高傑作との評価も高い楽曲で、人気も高いのですが、歌うのはかなり難易度が高い曲です。聖子はその後も「いちご畑でつかまえて」のようなあり得ないような難しい楽曲をわりふられて、楽々と歌っているばかりか、生放送で披露して作品世界観までしっかりと表現しているのですが、まず普通の歌手には真似できないことです。第一に何でも売れる、第二に何でも楽々と歌える、という二つの条件が揃ったことにより、一種の「聖子解放区」なるものが出現し、日本のトップアーティストたちがこれでもかと腕を振るって練りに練った楽曲を提供し、ソングライターにとっての桃源郷が聖子という媒体を通して出現します。

その契機をつくったのが財津和夫であり、「チェリーブラッサム」でした。聖子自身は当初、この楽曲に拒否反応を示し「こんなのを歌っていては駄目だわ、と思った」と述べているのですが、それはアイドル歌謡の枠からあまりにも外れていたからでしょう。

聖子はなりたくてアイドルになっただけに、アイドル的なるものが好きでした。聖子は80年代初めに、ふわりとした髪型(いわゆる聖子ちゃんカット)、ロココ趣味のドレスという天地真理スタイルを復活させた人ですが、当時は既に山口百恵後期のスタイリッシュな大人の女性路線を経ていたために、下手したら冗談と受けとられる可能性がありました。そんな恰好をするのはもはや聖子だけだったのです。その後、聖子がブレイクした結果、猫も杓子もエピゴーネンになりましたが、その時にはもう聖子はそうしたスタイルをやめていました。

 

そして「赤いスイートピー」で作詞・松本隆、作曲・呉田軽穂松任谷由実)のコンビが実現するのですが…。

松本隆は80年代を代表する作詞家で、トップアイドルたちのほとんどに詞を提供しています。上位から8位までのアイドルたちで言えば、中森明菜に「愛撫」「Norma Jean」、小泉今日子に「魔女」「水のルージュ」、薬師丸ひろ子に「Woman~"Wの悲劇"より」、中山美穂に「派手!!!」「JINGI~愛してもらいます」、斉藤由貴に「情熱」を提供しています。

特に中山美穂については初期にプロデュースも手掛けています。

しかし松田聖子のプロデューサーとしての活動が著名で、松本隆と言えば松田聖子松田聖子と言えば松本隆といってもいいでしょう。「秘密の花園」は元は別の人が作曲していたのですが、松本隆が気に入らなかったので急遽、作曲者を松任谷由実に替えています。松田聖子プロジェクトにおいてはそういう権限を持っていた人です。

松任谷由実のアーティストとしての全盛期を、荒井由実時代に求める人は多いのですが、私は松任谷由実になってから7年間、アルバムで言えば「紅雀」から「DA・DI・DA」までがソングライターとしての全盛期だと思います。セールス的にはその数年後に絶頂が来るのですが、セールス的な絶頂が来た頃にはソングライターとしては下降期に入っています。そのソングライターとしての全盛期がまさしく彼女が松田聖子プロジェクトに関与した時期で、さすがにどの曲も珠玉の傑作ばかりです。

赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」「Rock'n Rouge」「秘密の花園」「瞳はダイアモンド」「時間の国のアリス」が松任谷由実松田聖子に提供したシングルA面曲になります。B面曲/アルバム曲では「制服」「レモネードの夏」「蒼いフォトグラフ」「恋人がサンタクロース」などが有名なところでしょうか。彼女はソングライターとして全盛期だった松任谷由実の楽曲を歌うことで、松任谷由実エピゴーネンになる危険を冒しました。ユーミンサウンドのチャンネルのひとつ、になってしまう可能性があったのですが、そうはならなかったのは、第一に二三の例外を除き、松任谷由実がセルフカバーしていないから、そして、松田聖子が独自の歌唱で、世界観をくっきりと提示したからでしょうか。

これは彼女の楽曲をカバーしたアーティストの歌を聴き比べればはっきりとします。カバーアーティストたちはプロですからそれぞれに上手いのですが、聴き比べればやはり聖子の歌唱が圧倒的に優れているのが分かります。これは単にオリジナルシンガーというだけでなく、楽曲の世界観を提示する能力が卓越しているからです。

彼女は洋楽の日本語版をカバーして歌っていることも多いのですが、それらはオリジナルよりもよほど強い輪郭を持っています。

松田聖子は演技は致命的に下手ですが、歌の中にドラマを作り上げる技量は他の追随を許しません。いわゆる歌が上手いと言われる人、例えば美空ひばりは、彼女自身が器楽として優れているのであって、実はその歌は、世界観を味わうというよりは、音楽としての歌を楽しむ、実はより純粋音楽の方向に寄り添っています。松田聖子は歌を映像として見せる技量に秀でているのであって、その圧倒さは唯一無二のものです(対照的に中森明菜は器楽寄りの歌手です)。

 

はっぴいえんど」人脈によって松田聖子というアイドルの楽曲の風景は歴史的なものになったのですが、松田聖子自身は本来はそちらの性向ではなかったのでしょう。「花一色」は文芸映画「野菊の墓」の主題歌で、やはり数多くの文芸映画に主演した山口百恵の中期の路線を思わせる楽曲でしたが、しっとりと日本の情感を歌い上げています。彼女自身はそういう、「大人」の路線にシフトして行きたかったはずですが、松田聖子プロジェクトが圧倒的な成功を収めたために彼女自身、その成功に圧倒されていきます。

チェリーブラッサムを歌いたくなかった」

という言葉は実は、「案外、自分のことはわからないものだ」という自己反省の文脈で語られています。自分よりも周囲の方が案外分かっているのではないか、チェリーブラッサムはそういう教訓を彼女に与え、彼女自身、松田聖子を自己模倣していきます。

アイドル時代のキャリアの後半になるにつれ、子供っぽい、可愛い歌の傾向に拍車がかかるのは、その表れでしょう。「時間の国のアリス」「天使のウィンク」「ボーイの季節」は過剰な少女趣味が行き過ぎていて悪趣味ですらあります。

ほとんど自らの巣に絡まる蜘蛛のような、自虐的とも言えるまでに肥大化してゆくアイドルとしての松田聖子の路線に、松田聖子は結婚休業をすることでけりをつけるのです。

80年代女性アイドル格付(転載)

80年代女性アイドル格付シリーズは英時一がはてな匿名ダイアリーで連載したものです。今回、ブログ開設に伴ってこちらにも転載することにしました。

 

あまちゃん」見ていた甥っ子が、キョンキョンと薬師丸ひろ子を見て、「この人たち、松田聖子より人気があったの?」と聞いてきた。

そんなゆとりな彼のために、80年代女性アイドルの当時的な感覚での格付けをやってみる。

 

第1位 松田聖子

代表作品:「青い珊瑚礁」「チェリーブラッサム」「赤いスイートピー」/『野菊の墓』など。

言わずと知れたアイドルの中のアイドル。絶対正義。高度経済成長から、安定成長へ、そしてバブルへと向かう世相の中で、松田聖子が時代を代表出来たのには彼女の生い立ちによるところも大きいと思う。一点の曇りもない地方の中産階級、そんな彼女には貧困も、学園闘争も、無縁だった。60年代の加山雄三的なるものから70年代の四畳半フォーク時代を飛ばして直結していると言えるが、加山雄三が曇りが無いように見えても階級社会的な側面や敗戦国国民のてらいのようなものがあるのに対して、松田聖子は徹頭徹尾、能天気であった。彼女は日本が初めて獲得した、先進国のアイドルであった。

 

第2位 中森明菜

代表作品:「少女A」「DESIRE」「難破船」/『素顔のままで』など。

80年代の曇りのない時代性に松田聖子がシンクロしたのに対して、中森明菜は裏シンクロしていたと言えるだろう。彼女の性向が松田聖子的なるものにアンチであったわけではない。彼女自身、松田聖子のシングル、アルバムはすべて聞き込んでいることを公言しているように、彼女は松田聖子的なるものの渇望者であった。しかし彼女の生育環境が、松田聖子的なるものから遠い場所に彼女を置いてしまった。松田聖子は唯一の兄が普通に私立の進学校を経て早稲田大学を出ているが、中森明菜の家族の中には四年制大学を出た者はいない。松田聖子が家庭の教育方針も含めて「きちんとした家」の出であったのに対して中森明菜はそういう家の出ではなかった。山口百恵が母子家庭で育ったゆえに貧しい環境の生い立ちであったが、後に彼女を利用しようとした父親を早い段階で義絶するなど、厳しい倫理観を持っていたのに対し、中森明菜の家庭は「四年制大学に行くのが当たり前の時代にあって、方法を求めれば大学に行けなくもないのに、大学に行くという選択を考慮しない家」であった。60年代、70年代における低学歴と80年代における低学歴は意味が違う。中森明菜は貧困ではない、戦争でもない、家庭環境のキャラクターのせいで、80年代のメインストリームから取り残された層を代表するアイドルであった。ヤンキー映画「ハインティーンブギ」に主演した近藤真彦に対して見せた彼女の執着も、中森明菜のそうしたキャラクターに由来している。

 

第3位 小泉今日子

代表作品:「真っ赤な女の子」「ヤマトナデシコ七変化」「なんてたってアイドル」/『生徒諸君!』『あんみつ姫』など。

彼女は「そこそこ」の人だった。演技力もそこそこ、歌唱力もそこそこ、下手ではない。デビュー曲がカバー曲であったことからも分かるように、バーニングプロダクションは彼女が聖子に匹敵するようなアイドルになるとは期待していなかった。小泉今日子は結果的にセルフプロデュースで大きくなった人である。ルックスは82年組の中でも特に可愛らしかったのだから、トップアイドルになったのは不思議ではなかったが、アイドルたちのひとり、から抜け出してきたのは、松田聖子が日本社会の経済面を担い、中森明菜が社会面を担ったとすれば、文化面を担うと言う決断をある時期に、彼女がなしたからであった。そういう意味では、オタクの愛玩的な性格を強めてゆくその後のアイドルの先駆けをなした人であるが、彼女が直接のターゲットにしたのはニューアカデミニズムであった。それが下世話にならない選択であり、それは社会にまだハイブロウな雰囲気があればこそ可能なのであった。それがバブル崩壊で日本経済が自信不信になり、社会世相が暗くなってから、むしろそれ以後に、ハイブロウなライフスタイルを体現する生活アイドルとして彼女が支持された理由だった。

 

第4位 薬師丸ひろ子

代表作品:「セーラー服と機関銃」「メンテーマ」「woman~Wの悲劇より」/『野生の証明』『翔んだカップル』『ねらわれた学園』『セーラー服と機関銃』など。

薬師丸ひろ子はアイドル歌手と言うよりは角川映画の女優であって、立ち位置的には他のアイドルとやや異なるが、彼女にとっては余技であったアイドル歌手としての実績も十分である。系譜的にはアイドル的な先駆者はおらず、むしろNHKの少年ドラマシリーズのようなジュブナイル的なものの延長に彼女はいた。小学生などからの支持は無かっただろうが、中高生の理系的な男性が支持層の中心にいた。2010年のテレビドラマ『Q10』では彼女は化学教師を演じているが、教師を演じるなら彼女は理系だろうなと思わせる雰囲気があった。

 

第5位 中山美穂

代表作品:「生意気」「派手!!!」「You're My Only Shinin' Star」/『毎度お騒がせします』『BE BOP HIGHSCHOOL』『ママはアイドル』など。

中山美穂は路線的にはきつい顔立ちであることもあって当初は「不良少女路線」であり、『毎度お騒がせします』『BE BOP HIGHSCHOOL』もその路線に沿った出演作品だった。11作目のシングル「501/50」あたりからフェミニンな路線に入り、以後、5作連続してオリコン1位を獲得している。デビュー時と路線を変えて大きくブレイクしたというのは小泉今日子もそうだが、中山美穂の場合は、キャラクターまで変えてきたのが大きかった。

 

第6位 工藤静香

代表作品:「抱いてくれたらいいのに」「黄砂に吹かれて」「慟哭」など。

工藤静香はおニャン子出身であり、うしろ髪ひかれ隊でも堅調なセールスを示していたが、ソロになってからは一躍トップアイドルになり、聖子、明菜、小泉今日子がそれぞれアイドルというステージを脱してゆく中で、アイドル四天王のひとりとして遇された。彼女の特徴はCDセールスが非常に高いことで、これは90年代にかかって、いわゆるカラオケブームに伴うCDがやたら売れると言う時代に差し掛かったことにもよる。シンガーの作品として楽曲が評価されていた、ということでもあるが、彼女には映像作品にはこれという代表作は無い。(南野陽子の最高売上シングルは「吐息でネット」で30万枚。工藤静香の最高売上シングルは「慟哭」で94万枚)。

 

第7位 南野陽子

代表作品:「楽園のDoor」「話しかけたかった」「はいからさんが通る」/『スケバン刑事(第2期)』『はいからさんが通る』『熱っぽいの』など。

勢い的には、第5位につけてもよかったし、個人的にはファンであったので、そうしても良かったのだが諸々を考慮すればこうなるのかなと思う。第6作のシングルから8作連続でオリコン1位を獲得という快挙を成し遂げているが、その記録の割には、記憶に残る楽曲が少ない。実際、彼女の歌は、中山美穂や工藤静香と比較して、順位は高くまで行くが落ちるのが早い印象があり、セールス額もそれを裏付けている。中山美穂、工藤静香には女性ファンも多かったが南野陽子には稀だった。そのファン層の狭さが素質的には抜群であるのに、ついに頂点を極められなかった理由だろうか。そういう意味ではアイドルらしいアイドルであり、彼女がアイドルの世界を心から愛し、自らを律していたことについては数多くの証言がある。事務所の不手際でふたつの事務所に属することになったため、ダブルブッキング等が頻繁に発生し、マネージャーを厳しく叱責していた姿も知られているが、アイドル的なものに対するプロ根性のあらわれだろう。

 

第8位 斉藤由貴

代表作品:「卒業」「初戀」「悲しみよこんにちは」/『スケバン刑事(第1期)』『はね駒』『はいすくーる落書』など。

東宝芸能の所属であり、アイドルと言うよりは女優のイメージが強い彼女だが、デビューから継続してシングルをチャート上位に入れている。斉藤由貴が世間を騒がせた恋愛事件は二件とも不倫であったので、「魔性の女」とも言われたが、その言葉からほど遠いキャラクターである。やった行為で言えば、確かに二件の不倫の当事者なのだが、「魔性の女」という言葉を用いた人でも、その言葉から連想されるような女性とは彼女は異なることは分かっていただろう。宗教上の理由もあるのかもしれないが、彼女は世間ずれしていなくて、不必要なまでに一生懸命な印象であった。「悲しみよこんにちは」では紅白初出場で紅組キャプテンを務めたが、いつになく「由貴ちゃんのために」と紅組がまとまっていたように、芸能界特有の嫉妬や自己顕示欲とは無縁の人であった。

 

*ブコメがたくさんついていて驚いた。とりあえず甥っ子には好評でした。

9位以下を書いていないのは疲れたからです。

個人的には、9位 菊池桃子、10位 原田知世、11位 柏原芳恵、12位 河合奈保子、あたりじゃないかと思います。浅香唯は実働が短かったので、柏原芳恵あたりと比較するとその下くらいなのかなと。

ちなみに、松田聖子中森明菜南野陽子斉藤由貴についてはファンクラブの会員でした。おニャン子からは14位くらいに河合その子が入るのかなあと思います。

 

*9位以下を書いてみます。

そう言えばグループは書いていませんが、おニャン子クラブは全体としては、小泉今日子の下くらい、もしかしたら中森明菜の下くらい、でも明菜より上には絶対に行かないくらい(それくらい聖子と明菜は別格です。ケタが違います。聖子と明菜以外を全部足してもまだ聖子と明菜には及ばない感じです。聖子と明菜は日本芸能史全体を通しても突出しています)、WINKは実働が80年代末期に偏っているんでどっちかというと90年代の人という印象なんですが、斉藤由貴の下くらいなんじゃないかなと思います。ribbon とかは年代的に対象外です。おニャン子のユニットでは、後ろ髪ひかれ隊が斉藤由貴あたりと同格、そのすぐ下にうしろ指さされ組(高井麻巳子とゆうゆ)あたりが入る感じです。ニャンギラスは…ま、いいですよね。おニャン子ではなかじが好きでした。「じゃあね」は名曲っす。ただ今回はグループは除外と言う方向で。グループで言ったら、あと「わらべ」とかね。

 

第9位 菊池桃子

代表作品:「卒業」「もう逢えないかもしれない」「SAY YES!」/『パンツの穴』『アイドルを探せ』『君の瞳に恋してる』など。

彼女は東京出身なのだが、個人的にずっと北海道出身と誤解していた時期が長くて、なんでそう誤解してたんだろうと思うと、非常に素朴な、ピュアな感じがしたからだと思う。本当のところは知らないが、おっとりとした上品な感じがする女性で、『パンツの穴』なんていう映画に出ていても、下品な感じにはならない、でもちょっと男の子の側に寄り添ってくれるような、そういう雰囲気を持っていた。普通はそういう女性は女性からは嫌われるんだけれど、良くも悪くもあんまり印象に残らないというか嫌われないのはいいことだけれど、女性から見ても、妹キャラというか、強く女を感じさせる存在ではなかったのかも知れない。独特の、女性というよりは幼女のようなフェミニンな印象からか、彼女のアイドルとしての活動時期には「桃子」と言う名前が新生児の命名の上位を占めることがあった。何というかそういう親から見て良い娘的なそういうポジションに素直に入り込んだ人であった。彼女の代表曲としては、実は「アッイッはこころのーしごとよー」のアイマイミーマインなRA MU時代の楽曲が世間では一番強く印象に残っているのだろうが、それを代表曲に選ぶのはあんまりだと思った。RA MU で迷走した彼女だったが、90年代にはトレンディ女優の一画を占め、アイドル時代よりも大成功した。

 

第10位 原田知世

代表作品:「時をかける少女」「天国にいちばん近い島」「早春物語」/『時をかける少女』『天国にいちばん近い島』『早春物語』など。

松任谷由実薬師丸ひろ子にも原田知世にも楽曲を提供しているが、彼女が言うには、原田知世は鉛筆で例えるならば2Hで薬師丸ひろ子は2Bらしい。言い得て妙だと思う。原田知世には肉感の無い、サイバーパンクな感じがあるんですね。顔立ちもいわゆるアイドル顔ではなく、と言って和風と言い切れる顔でもなく、どこかメカニックな感じがする。たぶんここまでの人たちの中で一番、初音ミク的なフォルムがある。世俗的ではないんだけれども、宗教的な超越に向かうんじゃなくて、SFっぽい方向に行くような、そういう感じがあって、オタク的な性向のある人たちには熱狂的に支持されていた。サブカルクラスタ的には彼女がたぶん80年代を代表するアイドル。逆に言えばそこを越えては広がっていかない感じ。「時をかける少女」の頃はアイドルが歌が下手と言っても限度があるだろ的な下手さであったが、不思議なもので、シンガーとしてのキャリアは、二大歌姫(聖子と明菜)を除けば彼女が一番長いし、独自の境地を切り開いていると思う。彼女の歌には情感はかけらもないが、それがむしろユニークな歌唱になっている。

 

第11位 柏原芳恵

代表作品:「ハローグッバイ」「最愛」「あの場所から」「春なのに」/『ピンキーパンチ大逆転』『山河燃ゆ』など。

たぶん美人で言ったら、彼女はアイドルの中でもナンバーワンに美人なのだが、「かわいい」が受けるアイドルとはそもそも路線が違う顔立ちで、彼女のファンだと公言するのはやたら生々しい、女、に直結する印象があった。美人であるがゆえに、80年代の土壌ではトップにはなり難い顔立ちだったのだが、女性をめでる基準がアメリカ的というか、日本よりはむしろアメリカに近いアジアの発展途上国(アメコミが大人気、的な)では非常に強く支持されているアイドルだった。ただしアイドルとしてデビューして、数年たってから彼女はヒット曲を連発していて、みんな知っている代表曲がわりあい多いアイドルでもある。ただそれも、わりあい歌唱力が高いのと、楽曲の良さが相乗した結果であって、歌手としてのヒットであってアイドルとしてのヒットとは言い難い(歌手としてはそれは名誉なことだが)。ドラマでは早くに本格的なドラマに出演するようになったのは、彼女の素養がむしろそちらにあると考えたからだろう。大河ドラマ「山河燃ゆ」では長男・自殺、三男・日本兵として戦って敗戦の傷を負う、三男・米兵としてヨーロッパで戦い失明、という天羽家にあって希望の光のような末の妹を好演していた。90年代以降は2時間ドラマの常連になる。

 

第12位 河合奈保子

代表作品:「大きな森の小さなお家」「ヤングボーイ」「けんかをやめて」など。

デビュー曲「大きな森の小さなお家」は女体を連想させる歌詞になっているが、ポスト百恵の時代、試行錯誤が行われていたことを示している。彼女は「秀樹の妹」コンテストから出てきたのだが、ロリコンチックな、吾妻ひでお的なオタクアイドル的な扱われ方であった。「ヤングボーイ」の振り付けは彼女の巨乳を強調するもので、あきらかにセックスのアイコン的な意味が含められていたのだが、当人がそれに気づいていない風な育ちの良さのようなものがあった。「おかあさんといっしょ」のお姉さん的な素朴さというか。突っ込んでいけば、気づいてないわけねえだろ的な悪態は可能であったが、そこまで抑えて抑えて、加工して加工しなければ、女性に接することが出来ない、いわばそう言う層を彼女はメインターゲットにしていた。彼女の代表曲「けんかをやめて」はそういう路線を変更する、オタク層には逆鱗に触れるようなビッチ女性の態度を優しくオブラートに包んで提出したものだったが、なにぶん、当の河合奈保子がキャラクター的に素でお嬢さんであったため、路線変更はうまくいかずいったんそこでフェイドアウトしている。後に、シンガーソングライターとして一時的に復活した。

 

第13位 浅香唯

代表作品:「C」「虹のDreamer」「セシル」/『スケバン刑事(第3期)』

うちのカミさんはカラオケに行ったら、必ず「セシル」で締めるんだが…。浅香唯は『スケバン刑事』でブレイクしたのだが、オリコン1位をとったのは4作品と、アイドル四天王の中では実績が一番小さい。ブレイクが1988年、「ザ・ベストテン」が終わるのが翌年の9月だから、いわゆるアイドル黄金時代の末期に出た人である。その活動期間の短さが、結果的にスーパーアイドルとまではいかなかった理由か。

 

第14位 荻野目洋子

代表作品:「ダンシングヒーロー」「Dance Beat は夜明けまで」「六本木純情派」/『早春物語』

そうだろうよ。実績から言ったら、彼女は岡田有希子よりものりPよりもアイドルとしては上だろうよ。でも誰も「荻野目洋子の名前がない!」とは言わないんだよね。そういう感じなんですよ。そういう感じのアイドルなんですよ。そもそも彼女は低迷時代が長くて、ユーロビートを歌うようになってから、ダンスミュージック的なジャンルにかかって出てきた人なんで、ルート的には長山洋子とかと同じタイプなのだが、そのわりには顔立ちがアイドルアイドルをしていて、ブレイクしてからどんどんアイドル色を強めていったという、普通は逆にアイドルがアーティスト色を強めていくのだが、彼女は逆だったという珍しいパターン。

 

第15位 本田美奈子

代表作品:「Sosotte」「1986年のマリリン」「the Cross ~愛の十字架」/『ミス・サイゴン

シンガーとしては本物の天才であり、そのことはアイドル時代を脱してから、ミュージカルスターとなってから証明されたが、アイドル時代は「アイドルにしては歌が上手い子」程度の扱われ方だった。それは売り出し方が適切ではなかったからではないか。歌が上手いと言っても、情感があるとか、テクニックがあるとかいろんな意味合いがあるが、彼女の場合はフィジカルなポテンシャルに負う部分があって、言い方は悪いが「歌う機械」としてはロングトーンの能力はたぶん人類史上最高の能力を持っていた。それを活かす楽曲ではなかった。本田美奈子は元は演歌歌手志望であったように、彼女の適性を活かせる楽曲を探し求め続けた半生であったと言えるかも知れない。なまじ顔立ちが愛らしかったため、小悪魔的なアイドルとして売られたのは彼女にとっては不幸なことだったかも知れない。『ミス・サイゴン』のオーディションではしょせんアイドルくずれと鼻で嗤っていた者たちも彼女の歌を聞いて圧倒されて身動きも出来なかったと言うが、あれほどの才能にして、アイドルと言うパッケージに入れられれば、そのパッケージしか見ない者がどれだけ多いのかということを示している。聖子や明菜についてさえ、「歌が下手」と言ってはばからない不見識の者が多かったが、あれから30年が過ぎて、何もわかっていないのはどちらだったのか、歴史が証明している。時が過ぎるのは悪いことばかりではない。

 

第16位 岡田有希

代表作品:「ファースト・デイト」「Love Fair」「くちびる Network」/『禁じられたマリコ』

彼女はこれからというところだった。徐々に売り上げを伸ばしていて、8作目のシングル「くちびる Network」(事務所の先輩の松田聖子の作詞)でついにオリコン1位を獲得して、ようやくトップアイドルになったばかりだった。ポスト聖子を担う、サンミュージックの大黒柱になるはずだった。おそらくアイドルの中では傑出して頭がいい子だっただろう。ノーベル賞受賞者を輩出している、愛知県でも有数の進学名門高校を彼女はアイドルになるために中退している(そして堀越学園に転校)。進学校にいる女子生徒は、もちろん頭もいいのだが、男子の場合は野心のようなものがあるのに対し、むしろ野心の欠如というか、従順性の結果として勉強をしている子も多い。岡田有希子も基本的にはそういうタイプの子で、彼女は望みさえすればキャリアウーマンにもなれるような道を選ぶことが出来たのだが、そちらの路線には価値を見出さずに、小さな女の子の時の夢のままに、アイドルになるという選択をした。ああいうことになって親御さんはどれほど悔んだだろうか。彼女は天然ボケというか、悪意があって周囲が彼女にセクシャルなことを言わせようとすると笑顔でなんにも気づかずに、それを言ってしまうようなところがあった。お笑い系のいじりでは「またー、変なことを言わせようとしてー」みたいなうっふきゃはは的なのりを期待していたのだろうが(そういうのが一番うまいのは松本伊代だった。天性のチーママである)、岡田有希子はうかつにいじれない、危険物っぽいところがあった。その純粋さが、衝撃に直面した時に、他人の何倍もの痛みになって彼女を殴打したのかも知れない。合掌。

 

というわけで、8の倍数ということでここまで。

15位が抜けていたので、入れました。本田美奈子です。河合その子や、82年組のその他の人たちが入っていないのは、「おニャン子を排する」「ママドルっぽい人たちを排する」とかそういう基準があるわけじゃなくて、評価としてこの下だということです。標題をつけました。

 

*数字は敢えて重視していない

客観的な数字としてはレコード売上があるけれど、参照はしてもそれだけを基準にしていないのは、80年代、活動時期を90年代に延ばしても、それなりの時間幅があるからです。ちなみに筆者は1971年の生まれで、正確に言うならば、松田聖子のファンクラブの会員だったのは筆者の姉です。南野陽子の最初のアルバムはレコードで買って、それ以後をCDで買ったという世代です。松田聖子はあれほど売れながらもミリオンは90年代の「あなたに逢いたくて」しか出していません。中森明菜はゼロです。一方、小泉今日子は90年代にミリオン2枚(合計すれば300万枚を越えます)、中山美穂もミリオンを2枚出していますから、シングルセールス的にはひょっとしたらキョンキョンと中山美穂は二大歌姫を上回るのですが、時代が違うから同じ基準では較べられません。より客観的な基準でレコードセールスを示している人もいますが、それだとかえって評価が歪められるのです。レコードセールスなどの記録は後からも参照できますが、歴史的な要因を補正して提出できるのは同時代人の見方だけです。これは個人の主観ではありますが、そうであるがためにかえってセールス記録を見るよりも客観的だと思います。

自分としてはアイドル黄金時代の終わり=ザ・ベストテンの終焉だと思っています。ザ・ベストテンは、音楽の趣味が多角化して、バンドブームの時代に対応できなくなったから終わったわけですが、逆に言うと、それ以前は日本人全体がひとつの文化環境を共有していた、そういう最後の時代だったということです。ですから80年代を生きた人なら、特別その人のファンではなくても、ここに上げられている楽曲のほとんどを歌えるはずです。