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SMAP解散で問われるべき原因

こんにちは。

マンガのランキングの件、放置したままになっていますが年内には何とか手を付けたいと思っています。

さて、2016年8月13日、結成25周年目のSMAPが年末に解散することが報じられました。メンバー内の関係はドロドロのようです。

つい昨年のことでしょうか、例の週刊文春での飯島マネージャーがメリー喜多川氏に叱責される、という事件がある前のことでしょうか、木村拓哉さんがSMAP解散について、

「うちは最初からそれぞれの個性に応じてバラバラだから、方向性の違いなんて生じようがない。だから解散する理由がない」

と言っていました。

これはおそらくその通りだ、少なくともその通りだったと思うんですよね。そのまま平穏無事であれば、週一回、SMAP×SMAPで会って、年数回コンサートで顔を合わせて、後はそれぞれの仕事、それぞれの好きなことをする、それで何の問題もなかったのだろうと思います。

でもひとたび、確執が生じれば、それを乗り越えるほどの必然性もなかった、ということなんだろうと思いますね。

今回の解散騒動では、それぞれのメンバーがいかにもその人らしい言動をしめしていますが、誰が良くて誰が悪いという問題ではないと思います。

中居正広さんは、本来積極的にリーダーシップを発揮するタイプではないですよね。彼は調整役、聞き役、そういう型のリーダーで、何とか調整して形の上だけでもSMAPを残そうとした、けれども現実の情勢に押し切られた、そういう印象です。

木村拓哉さんは、彼が性格的には集団の方向性を決める、という意味ではリーダーシップがありますが、SMAPには中居さんがいますから。もし中居さんがいなければ、尖っていた部分が年月に応じて丸くなって、リーダーとして成長していたかもしれませんが、中居さんがいる以上差別化して、逆に参謀役的な立ち位置に律してきたのだろうと思いますね。

木村さんを弁護するわけではありませんが、SMAPがおそらくジャニーズタレントの中では抜きんでて高額所得であるのも彼が待遇を改善してからですし、ジャニーズの労働組合委員長と言われるほど、彼は一匹狼で時にセルフィッシュに見えますが彼ほど他のメンバーやジャニーズタレントの利益を確保してきた人はいないでしょう。

SMAP自体、人気が出るための初動のエンジン役には木村拓哉さん以外では務まらなかったでしょうし、基本的にはそのレガシーでSMAPは25年間やってきたわけです。光GENJIメンバーのその後と比較すれば、金銭的にも、仕事の露出的にも、木村さんが他のメンバーにもたらした利益は計り知れないと思います。そこはきちんと評価しないといけないのではないでしょうか。

それだけの功績がある割には、まったくというわけではないですが、それほど他のメンバーに対して「俺が俺が」という部分が少ない人だと思いますね。基本的に親分肌の性格なんだろうと思います。彼には駆け引きの経験もありますし、経営と対峙した経験もあります。SMAP経営的には彼の判断は間違っていなかったでしょう。

問題はSMAP内のガヴァナンスを彼が確立していなかった、ということではないでしょうか。

稲垣吾郎さんはメンバー内からも軽く扱われることが多い人ですが、ひょうひょうとしていていいキャラクターです。積極的にどうこうするということはないでしょうが、だからこそこういう時に接着剤になれる、「いて便利な人」だと思いますね。私はSMAPから抜けてからこそ、彼のポテンシャルが発揮されてゆくのではないかと思います。もし芸能界政治的なしがらみがクリアされるならば、今後、俳優として一番ポテンシャルが高いのは彼だと思います。

草彅剛さんは結構我が強い人ですね。扱いが割合難しい人だと思います。彼の行動基準が、おそらくは純粋に芸能界的な判断基準ではないからだと思います。SMAPは個性に応じてそれぞれバラバラ、という面はあってもやはりSMAPというホームはあって、その中での役割はありました。そのくびきを脱すれば、そして新しい役に挑戦していけば、個性派のいい役者になれるのではないでしょうか。主役を演じるのは彼にとっては不幸でした。

香取慎吾さんは、天才です。多くの人が絶賛していますが、1995年、「沙粧妙子-最後の事件-」で見せた彼の演技は、すさまじいものがありました。

沙粧妙子-最後の事件-」は俳優の誰もがいい演技をしている、主演の浅野温子さんも珍しくいい演技をしているのですが、香取慎吾さんはその中でも完全に別格です。

百年に一人、というような天才俳優が出てきた、とあれを見た人は誰もが思ったのではないでしょうか。その後が「透明人間」でしたか、なんだこれは、と思いました。彼ほど出来がいい時とそうではない時の落差が激しい俳優はそうはいないですね。ネタキャラクターの「慎吾ママ」もちゃんとお母さんに見える、というかお母さんにしか見えない、なにかモンスター的な特殊スキルがあるような、そういうレベルの俳優です。

今回解散のイニシアティヴを彼が握ったという報道もあれば、彼としては「どちらでもいい」というスタンスだった、という報道もありますが、視聴者の目に見えて、彼が木村拓哉さんに敵対的だったのは事実でしょう。SMAPの活動についても積極的ではなかったでしょうし、仮に彼が今回の件では直接的には「どちらでもいい」というスタンスであったとしても、周囲にもはや継続は困難だと思わせた理由が彼にあるのは疑うべくもありません。

一度はSMAP存続でみな合意したわけですから、とにかく様子見でやってみようという意思はあったのでしょうが、香取さんの様子を見て「これはもう無理」と判断したのでしょう。

そういう意味では香取さんは「変わらない」。でも彼は最初からそう言う人であって、そういう部分で成功してきたんですよね。常に「大人の事情」には取り込まれない。ある意味、「成長しない」。

「沙症妙子-最後の事件-」の記念碑的な彼の演技についても、あれはある意味、演技ではなかったのかもしれないと思います。少なくとも、一般的な意味での演技ではない、彼の持つ闇の部分がうまい具合に引き出された結果、信じがたいほどの高水準が実現されたのでしょう。そういう意味では彼は決して器用な俳優ではありませんし、使う側の使い方のセンスが問われる俳優でしょう。

彼は「器用そうに見えて器用ではない」「変わらない」「変えない」「成長しない」、そういう人だからこそ成果を残してきたわけで、今回の騒動はまさしく、SMAPが成功した理由がそのまま解散の理由になっているのです。だからこそ、少なくともメンバーについては「誰が悪い」という話ではありません。

香取さんは今後、消える可能性が一番高いメンバーでしょうし、逆に日本芸能史レベルでレガシーになり得る唯一の人だと思います。扱いが難しい人です。活かし方が難しい人です。飯島マネージャーや中居さん、木村さんはよくやってきたと思います。

もし芸能界のエスタブリッシュメントたちに、文化に携わる者としての矜持があるならば、香取慎吾さんのような人を活かしてこそ、ではないでしょうか。

 

昨年のまだ平穏な時期に、木村拓哉さんが「うちには解散する理由がない」と語ったように、解散決定へと至る一連の流れはメンバーたちは完全に「巻き込まれた」ものです。その意味でも、メンバーの誰それが悪い、と言うのは不適切です。彼らが原因ではありませんから。

直接の原因はメリー喜多川・ジュリー藤島派と飯島女史派の会社内での派閥対立ですが、そもそもからいえば、社長のジャニー喜多川氏が6割の株式を持つ完全同族会社で、どうして派閥争いが生じたのか、という話です。

株式をそもそも所有していない飯島女史が派閥を作れるはずもないので、彼女がジャニー喜多川氏の支持を受けていた、容認されていたのは明白です。本当の問題は、ならばなぜジャニー喜多川氏が今回の件にきちんと介入しなかったのか、ということです。

ジャニー喜多川氏の会社内でのガヴァナンス、ガヴァナビリティが問題の本質です。

おそらくは単に株式の問題では測れない程度には、ジャニー喜多川氏は経営的な意味において会社を掌握できていないのではないでしょうか。

戦後日本は一億総中流社会といわれ、上流階級が見えにくくなっていますが、上流階級、支配階級のネットワークは厳然として存在しています。

華族の人たちの経歴を調べてみればすぐにわかりますよ。特に重要なのは閨閥です。戦後の新興富裕層と旧体制の支配層の接着剤となったのが旧華族であって、これは彼ら全員に利益があることなんですね。

資産、ネットワーク、コネクションをそれぞれ確保する、ということですから。

政商とも呼ばれ、裏社会にも通じているといわれた小佐野賢治氏は夫人を旧堀田伯爵家から迎えています。これは彼が単にトロフィーワイフを求めた、というのではなくて、彼が率いる国際興業グループはこれで既得権益層のネットワークにつながった、ということなんですね。

小佐野夫人の実弟は尾張徳川家に養子で入っています。徳川一族ともつながって、皇族ともつながっている、ということになります。

藤島泰輔氏は今上陛下のご学友、日銀総裁を出したこともある一族で、競走馬を何頭も抱えるような富豪でしたが、彼の口利きで、ジャニーズ事務所を立ち上げる際に小佐野夫人がスポンサーになっているらしいんですね。

藤島泰輔氏は言うまでもなくメリー喜多川氏の夫で、ジュリー藤島氏の父親です。

つまりジャニーズ事務所というのは、資金面からいっても、コネクション的に言っても経営の実務からいっても、ジャニー喜多川氏の事業というよりは藤島家のファミリービジネスなのであって、ジャニー喜多川氏は経営の実務を掌握していない、実態としては育成担当の「重役」に過ぎないとみるのが妥当だと思います。

昨年の例の問題になった週刊文春メリー喜多川氏へのインタビュー記事では、飯島女史の件以外でも彼女はいくつか興味深い話をしています。

マッチが一番大事、というのもそうなんですが、著作権やグッズの保護、興業における切った張ったのやりあいなど、「芸能事務所経営」の基幹部分は彼女が担ってきたようなんですね。

メリーさんとジャニーさんの姉弟仲は微妙、という声もありますが、資金は用意してくれる、コネも用意してくれる、難しい部分やややこしい部分は引き受けてくれる、ジャニーさんがやりたいタレント育成の部分だけは任せて専念させてくれる、ちょっとお姉さんとしては過保護なくらいですね。

SMAPと飯島女史が経営サイド視点から見ればアンタッチャブルになってしまったのは、ジャニー喜多川氏が「育成者を育成する」という視点で飯島女史を扱っていたからでしょう。それでずるずると来てしまって、派閥が云々というような事態になってしまった。

つまり事の根幹は、ジャニー喜多川氏の経営者らしからぬ行動にあるのです。

メリー喜多川氏の昨年来の暴発は彼女の強さではなく弱さの表れです。実態はどうであれ社長はジャニー氏ですし、株式も彼が抑えています。彼が「まあまあ」と言っている間はメリー氏は経営のガヴァナンスを徹底することができません。ああいう常識外れの暴発をしなければ、彼女には事態を動かせなかったわけです。

そして彼女にはもうそう長くは待つ時間がありませんでした。

芸能事務所というものは人を扱う商売です。極めて属人的な仕事です。経営者の代替わりではうまくいかないことも多いですし、特に、ジャニーズ事務所ホリプロのような経営の近代化を進めておらず、ジャニー氏、メリー氏の個性と個人的なつながりに依存する割合が大きい。ジュリー藤島氏がそのままレガシーを引き継げるかというのが問題です。もちろん、ジュリー氏がジャニーズ事務所の経営権を獲得するのは間違いないでしょうが、その時に飯島女史がいてSMAPを率いて独立すればジャニーズ事務所は居抜きで弱体化します。その場合はSMAPだけにはとどまらないでしょう。ジャニー氏もメリー氏もいないジャニーズ事務所に他のタレントが忠誠を誓う理由がありませんから。

ジャニー氏はメリー氏には恩義はあるでしょうが、姪のジュリー氏には別に恩義はないでしょう。「育成者」としての大局から見て、飯島女史を後継者に指名する、つまり株を遺贈することもないとは言い切れなかったでしょう。

メリー氏が動くならばあの時点が最後のチャンスだったということです。

それでも、メリー氏もジャニー氏もいずれはお亡くなりになります。あと半世紀も生きていられるはずもありません。

今後、これでおしまいにはならない可能性もあります。

魂が震える読書~21世紀日本マンガBEST30 (1)

2015年、「このマンガがすごい」でレコメンドされたマンガは記録的な不作でした。と言って、昨年発表されたマンガがすべて不作であったというわけではなく、前年以前にすでにレコメンドされている連載作品等は省かれる傾向にあるので、新規の、発掘された作品が低調だった、ということです。

別記事でも述べていますが、こうした発掘紹介系のランキングのそもそもの問題点として、時事性の強い「問題作」や、業界裏話的なインサイダーからの興味や評価を得られそうな作品が上位になりがちな点です。

そういうランキングとして利用するには役に立つのですが、10年たって、20年たって、時代を越えてゆくような作品を選んでいるかと言えば、そうともいえないように思います。

ただ、そういうオールタイムベスト的な作品はそうしょっちゅう作られるものでもなくて、毎年あれだけのマンガ作品が書かれながら、年に一二作あればいいほう、三作もあれば大豊作でしたね、という感じです。

21世紀も今年で16年目ですか、過去、有識者によって「21世紀に残したいマンガ」は選ばれたことがあるのですが、21世紀に入ってからのオールタイムベストというようなものはあまりみかけたことがありません。

そういうわけで自分で上位30作品を選んでみました。

私は話題作、有名作はだいたい読んでいます。読み過ぎて内容がこんがらがっていることも結構あります。

その中から、30作品、これは誰が読んでも面白い、上質な読書体験になりますよ、というのを選んでみました。まあ、そうはいっても選者の主観を完全に排除できるわけでもなく、そうするつもりもありません。はなぶさはいい年をした大人なので、さすがに児童マンガはフォローしていませんし、いわゆる「少年誌」の作品が知名度に比してランクインが少ないのも、子供向けの作品が多いからです。

選出基準は、

・日本語で書かれたマンガであること。

・連載初回、もしくは単行本第1巻発行日が1995年1月以降の作品であること。

・内容量の7割以上が2001年1月以降に書かれた作品であること。

・初出が商業誌/新聞掲載作品、もしくは単行本であること。

としました。

男性部門/女性部門に分けようかと思いましたが、分け方が難しい作品も多々あり、結果的にほぼ半分ずつにもなったので、わけずにそのまま提示します。ネットマンガの中にも読むべき作品は多いのですが、ここでは除外しました。「ホリミヤ」とかは大好きなんですけどね。

先に総論を言えば、女性の書き手の活躍が著しい、ということです。女性が少年誌に作品を載せることはあっても男性が少女誌に載せる例は非常に稀です(魔夜峰央とか、大御所クラスにはいますけど)。

過去、少女マンガもまた手塚治虫トキワ荘世代の男性作家によって興隆したことを踏まえれば、これは男性としては残念な現象です。

思うに、少女マンガは24年組以降、独自のテクニック的な進化を経ていて、それが少女マンガ文法に馴れていない男性が少女マンガを読みにくいと感じさせる一因だと考えることができますが、女性は少女マンガも読んで、少年マンガも読んでいますが、男性の書き手で少女マンガ教養が欠落している人は多いわけです。

少女マンガも読まない男性マンガ家には未来はない、と私は思いますが、引き出しが多い書き手の方が有利なのは自明のことです。ジャンプのマンガしか読まなくて、ジャンプのマンガのようなマンガを書こうと思っている男性マンガ家予備軍がもしいるとすれば、建材といえばコンクリートしか知らない建築家のようなものだと評するしかありません。

男性マンガ家予備軍の奮起を期待したいところです。

 

第30位

最強!都立あおい坂高校野球部 

最強!都立あおい坂高校野球部 1 (少年サンデーコミックス)

最強!都立あおい坂高校野球部 1 (少年サンデーコミックス)

 

 田中モトユキ

週刊少年サンデー 2005~2010 小学館

最強!都立あおい坂高校野球部 - Wikipedia

あら、これ第1巻の表紙が主人公のキタローじゃないんですね。

簡単に要約すれば、言っちゃっていいのかな、1年生が主力の公立高校野球部がその年の夏の甲子園大会で優勝する、というお話なんですけどね、現実にはあり得ない話ですよ。都立だったら、シード権がなければ12回か14回くらいは勝って勝って勝ち続けなければいけないんですから。

野球マンガというのは歴史的に言えば野球を知らない人たちが書いてきました。ゲームメイキング的に言えば荒唐無稽なお話が多いのですが、この作品はそちらに拠ったマンガですね。つまり伝統的な野球マンガに近いのですが、いかにそれを努力と根性と気合で、説得力を与えて、感動を与えるか、というのが書き手の技量なわけです。

と言いましてもね、今の時代、「巨人の星」が通用するはずもなく、しらけたことになりかねないんですが、シリアスな描線でありながら、マンガチックに思い切ってデフォルメした線が妙に説得力があるんですよね。

これは小学館漫画賞(少年部門)受賞作品です。燃えたい! スカッとしたいならオススメのマンガですね。

 

第29位

キス&ネバークライ

キス&ネバークライ コミック 1-11巻セット (KC KISS)

キス&ネバークライ コミック 1-11巻セット (KC KISS)

 

 小川彌生

Kiss 2008~2011 講談社

キス&ネバークライ - Wikipedia

小川彌生は「きみはペット」が代表作で出世作になるんでしょうが、作品としてはこちらの方が出来がいいです。

フィギュアスケート、男子女子共に日本は選手層が充実していますが、アイスダンスは歴史的に白人が上位を独占していて、これはその日本人アイスダンス選手の物語です。オリンピックのお話はこのブログでも別記事でとりあげていますが、フィギュアスケートは非常にお金がかかることもあって、スポンサーのオーナーシップがぬきんでて強い世界です。元有名女子フィギュア選手が、スポンサーでもあった有名財界人をセクシャルハラスメントで告発したこともありますが(これもSMAP騒動同様、二三の週刊誌以外は大手報道機関は「報道しない自由」を行使していらっしゃいましたが)、このマンガも、そうした重い要素をテーマとしてとりあげています。

これはそこからの絶望と希望、再生の物語です。キス&クライとはフィギュアスケートで滑り終わった選手が採点を待っている控えの場所がありますよね。あそこのことです。歓び(キス)と落胆(クライ)が映し出される所、という意味です。キスはしても、もう決して泣かない、題名の意味はそういうことです。

 

第28位

逃げるは恥だが役に立つ

海野つなみ

Kiss 2012~連載中 講談社

逃げるは恥だが役に立つ - Wikipedia

改めて見れば、この作家はすごいペンネームですね。ペンネームなんでしょうけど。3.11のことを思えば恐れを知らないという感じもしますが、このマンガの内容もわりあいおそれを知らないです。

恋愛要素もありますが、このマンガのみどころはそこではなくて、「職業としての主婦業/ハウスマネジメント」というところにあります。

家事家計の管理運営を徹底してマネジメントとして捉えてみる、職業として見る、という点が面白いのであって、専業主婦業を結婚に付随する状態として捉えるのではなくて、むしろそうした部分を排除する、批判的に捉えるという視点があります。

「家事だって大変なのよ!」と主張する専業主婦も多いでしょうが、改めて職業として再構築することによって、否定的な意味ではなく事実提示としてどこがどう大変なのかを検証するというか、非常に男性的な視点で再構築されているわけです。

「共感」を求める鬼女(きじょ)の方々からはけっこう敵視されかねない内容です。

登場人物で専業主婦に否定的なモテ男くんがいるのですが、そうした彼がマネジメントとしての主婦業というものは職業的に肯定しているというのも、面白いところです。

 

第27位

ハイスコアガール

ハイスコアガール(1) (ビッグガンガンコミックススーパー)

ハイスコアガール(1) (ビッグガンガンコミックススーパー)

 

 押切蓮介

月刊ヤングガンガン/増刊ヤングガンガン 2010~連載中(休載中) スクウェア・エニックス

ハイスコアガール - Wikipedia

どれくらいの時代を描いているのでしょうか、たぶん1980年生まれあたりの世代のお話なんですよね。コインを消費しなくても自宅のコンシューマ機でゲーセンと「同じ」格闘ゲームが出来る、というのが衝撃であり、それに対抗するようにしてアーケードの格闘ゲームも進化していった、そういう時代を背景にしています。

私はそんなにゲームセンターに入り浸るということはなかったんですけど、あの時代のアーケードの匂い、というものが伝わりますね。

このマンガの優れているところは、民俗的な資料価値があり、懐古趣味を刺激するところだけではなくて、少年と少女の成長物語としてきちんと成立している点ですね。

その状況を成立させるために、少女の側に、息も詰まるような徹底した管理がんされていて拘束されている、というリアリティという点ではどうなのかという設定を与えているのですが、その状況を受けてリアクションをする主人公の少年の言動が魅力的なので、物語として破綻はしていません。

この作品は作品内で著作物が「引用」されたSNKプレイモア著作権侵害にあたるとして訴訟を起こし、この件は作者とスクウェア・エニックスの担当者ら計15人が刑事告訴されるにまで発展しました。管轄した大阪府警は関係者の起訴を求める意見書を検察に送付しています。

異様なほど大袈裟な話になってしまったのですが、その後、和解が成立し、告訴も取り下げられています。同じゲーム制作会社でもあるスクウェア・エニックスとしては痛恨のミスであったのは間違いありません。

再開に向けて準備が進められているよし、出来がいい作品なので、読者としては再開を心待ちにしています。

 

第26位

毎日かあさん

毎日かあさん 1-7巻 セット

毎日かあさん 1-7巻 セット

 

 西原理恵子

毎日新聞 2002~連載中 毎日新聞社

毎日かあさん - Wikipedia

ホームドラマであり、日常物ではあるのですが、自伝エッセイでもあり、子育て物でもあり、それらすべてを抱合して、西原理恵子の人生を描いているマンガです。

西原理恵子薬師丸ひろ子と同学年なのですよ。私が書いた薬師丸ひろ子論も参照していただきたいのですが、女子生徒が男子生徒を「キミ」と呼ぶようなニュートラルな雰囲気、ジュヴナイルな洗練と無機質感が東京にあの時代にはあったのだとすれば、それはおそらく都心三区を切りだしたゲットー的なユートピアであったのですね。

土佐の高知では、なんだか同級生の女の子たちは貧乏に呑み込まれ、笑いながら笑いあった先にばくちでどうにもならなくなって男たちが首をくくるのは、そんなに珍しくないという、そういうところから出てきた西原は「貧乏は嫌だ貧乏は嫌だ」という戦後の欠食児童のような怨念から世界観を組み立てています。

夫の鴨志田穣とは東南アジアスピリチュアルの旅などでも仕事を一緒にしているのですが、「物質なんかより心が大事よ」なんていう先進国にありがちな予定調和の結論には陥らないところがこの人の真骨頂です。

長い作品ですから、山あり谷ありなのですが、この作品が傑作になっているのはやはり鴨志田の病気とその死について描いている部分があればこそですね。

 

第25位

失踪日記

失踪日記

失踪日記

 

 吾妻ひでお

イーストプレス 2005

失踪日記 - Wikipedia

奇しくも現代マンガ界二大アル中マンガが並ぶことになったのですが、このマンガはすさまじく衝撃的でしたよ。

吾妻ひでおが浮浪者として警察に取り調べを受けた時、オタクの刑事がいて、「先生ほどのお方が、なぜ?」と絞り出すように声を出しながらむせび泣いた、というエピソードが大笑いしながらも妙に胸に迫りました。

彼はオタクカルチャー界のピカソですよ。国宝ですよ。

その彼が失踪に至ったのは単に、経済的な問題から、ではないようですが、その転落ぶりは衝撃的です。

そしてこの本がマンガとして優れているのは、「なんとあの吾妻ひでおがっ!!!」というだけではない、ホームレス生活やアル中の実態本と、もしあなたがホームレスになったら参考になりそうなトリビア話がつまっているところです。

西原理恵子もそうなんですが、悲惨な話は悲惨な絵柄では読めない、彼らの画風だから書ける、エンタイテイメントとして成立するのです。

 

第24位

Sket Dance

 篠原健太

週刊少年ジャンプ 2007~2013 集英社

SKET DANCE - Wikipedia

篠原健太は表現力に富んでいるという意味で絵が上手い書き手ですね。初回第一回からすでに絵が完成されていますが、連載開始時点で33歳というある程度中堅としての実力をお持ちであれば当然のことなのでしょう。

ギャグパートでは常に大爆笑しました。ギャグが上質で洗練されていてセンスがある、ジャンプ連載陣の中でもピカイチだと思います。その割にはこの作品の評価はそれに見合ったほどは世評では高くないようです。

いやもちろん、コミックスも売れていますし、アニメ化もされています。普通で言えば大成功ではあるんですが、この作品の評価としてはみあわないほど低い、そう感じています。

このマンガはギャグマンガでありながら、貫くストーリーとしてはシリアスな流れがあって、たとえば主人公の出生の秘密とか、部員たちの過去とか、けっこうきりきりくる話も多かったのです。

もっと言えば、今や週刊少年ジャンプの読者の中で女性が占める割合は無視できないのですが、はっきり言えばあからさまにBLカップリングを狙った人間関係構成など、従来型の少年マンガの読者層の感情的な不評を招く要素があったのは否めません(しかし腐女子の方々も天邪鬼で、このマンガはBLとしてはそう活用されていないようなのですが)。

そう言う要素もあって、この作品は「不当に評価が低い」と私が思っているマンガ作品のひとつです。ドラクエRPGパートのお話は是非続きを読みたいものです。

 

第23位

花よりも花の如く

 成田美名子

月刊メロディ 2001~連載中 白泉社

花よりも花の如く - Wikipedia

23位に選んでおいていきなりディスから入るのもなんなのですが、成田美名子という作家を私は素直には評価できないんです。面白いし、感動もある、絵もスタイリッシュだ、少女マンガ界の大御所ですよ。何が気に入らないのかと言えば、どうもこの人の世界観に齟齬があるというか、認知の歪みがあるのではないか、そう思うことが多々あるのです。

Aという行動が引き起こされたのはBという原因がある、というプロットはいいのですが、この人の場合いつもいつも、Bなる原因が、「そんなこと?!」となることが多く、Aを踏まえての行動Cが「どうしてそうなるの?!」となることが非常に多いのです。

この人の初期の出世作「エイリアン通り」で言えば、ヒロインの翼は父親のアメリカ赴任について渡米して、その後、家出したところを主人公に保護されるのですが、家出の理由が「英語も分からずアメリカになじめなかったから」なんです。おかしいでしょ? それで日本に帰る、というなら分かりますが、英語も分からなくてアメリカに馴染めない人が、アメリカで家出をしてどうなるんだっていう話です。

この人の作品にはこういう齟齬が必ずひとつふたつあります。それで読者が許しているところがこの人の偉大なところです。欠点がすべてプラスになっている。思うに、この人は他人の感情や論理に疎いところがあります。登場人物も、その感情も書き割り的です。しかしそのことがかえって、作品の舞台や背景を浮かび上がらせるのに都合がよくなっています。佐々木倫子に似ていますが、佐々木倫子にとっての「獣医学部」「看護師」「地方放送局」が成田にとっては「海外」であったわけで、今回は「能楽業界」にそれを置いている分、業界物として面白いわけです。

 

第22位

しゃにむにGO

 羅川真理茂

花とゆめ 1998~2007 白泉社

しゃにむにGO - Wikipedia

羅川真理茂といえば小学館漫画賞を受賞した「赤ちゃんと僕」なのですが、当時から骨太というか、リアリズム寄りの表現が(少女マンガとしては)目立つ書き手でした。小学校五年生か六年生ですか、その「僕」が母親が死んだことによって赤ちゃんの弟の面倒を見るという話ですが、いいねいいねがんばってるね、とはならない。赤ちゃんが夜泣きをすれば面倒を見ているのが子供であっても、毎日のことならばご近所さんにとっては「なんとかならないんでしょうか」となってしまうんです。

そういうこともきちんと描いている。「ニューヨーク・ニューヨーク」では男性同性愛者の社会的差別の現実を、BL物という言葉では収まらない、ハードな現実を描いています。そうした手法から「少年誌や青年誌向きの人だな」とは思っていたのですが「ましろのおと」では月刊少年マガジンに掲載誌を移していますね。

しゃにむにGO」は9年間という長期連載になったのですが、テニスが題材ですが、テニスそのものは素材に過ぎないです。面白いのは主人公の伊出延久には「何もない」んですね。家庭環境も円満で明るく太陽のような少年です。少年マンガならばともかく、少女マンガでは主人公にはなりにくい。

その分彼の周囲の人たち、テニス部のマネージャーでヒロインや、男子ペアの選手、ライバル選手らがどろどろしたものを抱えている。これはそうした人たちが主人公と言うエスペランサ(希望)に触れて救済されてゆく物語なんですね。

 

第21位

アオイホノオ

アオイホノオ 1 (ヤングサンデーコミックス)

アオイホノオ 1 (ヤングサンデーコミックス)

 

 島本和彦

週刊ヤングサンデー 2007~連載中 小学館

アオイホノオ - Wikipedia

島本和彦はマンガ界のレガシーですが、作風的に賞とか、こういうランキングの対象にはなりにくくて、基本的に自分語りが大好きな島本の資質と、たまたま大学の同級生に庵野秀明がいたという幸福な偶然によって、奇跡的に「形になった」、そういう自伝的作品です。

島本先生、小学館漫画賞受賞おめでとうございます。

1982年頃ですか、松本零士の作品群も一区切りついて、高橋留美子あだち充が出てきて、日本のサブカル本流が決壊して洪水となり、拡大再生産してゆく、そう言う時代を描いていますね。

アニメ界で言えば、宮崎駿富野由悠季の世代にはまだこういう作品はないのに、庵野世代はもう「アオイホノオ」で持ってしまった、そういう作品でもあります。

梅雨が明けて、7月にかけて今年の夏は暑いなあと思っていたら、8月になってかんかん照りになった、これはその8月を描いているマンガです。アイドル論を私は書いていますが、今から過去を振り返れば、あの時代がまさしく日本の絶頂期であったわけです。

描いているのが島本和彦だから高度な洗練されたギャグになっていますが、その批評眼、分析眼というのは凄まじいですよ。

マンガ家やクリエイターの予備軍の中には世間知らずの人がいて、マンガのこと以外なにも知らない、マンガのこともただ楽しんでいるだけで分析批評が出来ていない、そう言う人がゴマンといますが、そう言う人が大成しないとまでは言わないまでも、非常に成功しにくいのは確かです。

他の仕事でもそうですが、全体に位置づけて考えながら仕事をしている人と、目の前のことをこなしているだけの人では、経験値が大きく違ってきます。

そしてこの作品の中でも主人公も驚いていますが、まったく考えていない人、というのは驚くほど多いのです。

島本先生、手の内を明かしてライバルを増やしちゃっていいんですか、と言いたくなるくらい、HOWTO本的な意味ではこの作品は非常に親切です。予備軍は読んでおくべきでしょう。そしてただ作品として消費してしまったならば、自分の書き手としての資質を疑うべきです。

 

今回はここまで。

次回は10日後か2週間後あたりになります。

不思議の国のジャニーズ

1980年代にポール・ボネという著述家がいました。在日フランス人という触れ込みでしたが、週刊ダイアモンド誌上に「不思議の国ニッポン」というコラムを十五年以上好評連載していました。そのシリーズは角川文庫でも出されていますので、そちらの方が入手しやすいかもしれません。

年齢的に私はそれをリアルタイムで読んでいたわけではないのですが、後でまとまった形になってむさぼるように読みました。思想環境的には、リベラルな家庭で育ったので、筋道だった保守的な意見というものにそれまで触れていなかったので、それまでぼんやりと感じていた疑問がエスプリの利いた文章に接して、明確な形をとってくる、そう言う経験をしました。

だからと言って今、私は保守的な人間だというわけではないのですが、ポール・ボネの著作、その見解、思想を、受け入れるにせよ、乗り越えてゆくにせよ、私の思想的土台になったのは確かです。

ポール・ボネが健在だったら、SMAP騒動をどう見たでしょうか。不思議の国、どころではなく、異様な国と評したかもしれません。

ポール・ボネは実は日本人で、作家/評論家の藤島泰輔が中の人だというのは明らかになっています。藤島泰輔は今の天皇陛下のご学友の一人で、ジャニーズ事務所副社長メリー喜多川(メリー藤島)氏の夫です。メリー氏の娘の藤島ジュリー景子氏は藤島泰輔の娘でもあって、「藤島」は藤島泰輔に由来するわけです。

 

ジャニーズ事務所のアイドル、それは80年代以後は日本の男性アイドルと同義なのですが、SMAP以前とSMAP以後にはっきりと分かれます。

それは確かなのですが、SMAPの特異性は、アイドル性を維持したまま、バラエティ/ドラマのウェイトを高めて、男性アイドルの寿命を長寿化させたという一点にあるのであって、その結果が特異なのであって、過程が特異であるわけではありません。

アイドルとお笑い、というのはむしろ伝統的な歌謡界/芸能界では親和性が高いものであって、「カックラキン大放送」などを思い起こせば、アイドルでありつつ話術やコント能力が高い新御三家沢田研二キャンディーズなどはむしろアイドルの王道的な立ち位置にいました。

ザ・スパイダース堺正章や井上順が、そう言う意味ではSMAPの早期形を示していたと言えます。

ジャニーズ事務所所属の中にもバラエティ的な意味で知的な反射神経が鋭い人はいました。薬丸裕英がそうだったでしょうし、郷ひろみもそうでした。田原俊彦もあれでかなりバラエティ受けする人です。少年隊の錦織一清は非常にそう言う才能に長けていた人ですが、不思議と伸び悩んでいるように思います。

彼の場合は事務所を出ていた方が大成していたのではないでしょうか。

ただ、そう言う人たちは不遇をかこつか、事務所から離れています。ジャニーズ事務所では活かし切れていないのです。

これはジャニー喜多川氏の「バカな子ほどかわいい、アイドル向き」という好みや思想があるのかもしれません。

マッチが事務所に残って、シブがきの中では布川敏和がジャニー氏のお気に入りだったというのもうなずける話です。

光GENJIパラダイス銀河を歌ってた時ですか、「大人は見えない しゃかりきコロンブス」という意味がよくわからないフレーズがあるのですが、メンバーがそれをきかれてコロンブスを知らないということが露呈したことがありました。

光GENJIはそういう意味では非常にジャニーズ事務所王道的なアイドルであり、ジャニー喜多川氏のプロデュース能力はあそこが最後の華でした。

それ以後の主要なジャニーズ事務所のアイドルは、SMAPの亜流であり、SMAPを育成したのは飯島女史なのですから、ジャニーズ事務所のアイドル育成機能の中核は飯島女史が担っていたと見るのが妥当だと思います。

 

さて、今回の騒動の件ですが、多くの皆さんがお感じになっておられるようなことを私もまた感じています。

そもそも、タレントを干すとか、意思に反してしばるとか、非常識な低報酬を強要するとか、そういうのは独占禁止法やもろもろの労働法に反するところです。

反するところですが、反しないようになっているのでしょう。つまり実態としては違法性を内包しているのですが外形的には違法ではない、だから首に鈴をつけられない、そういうふうになっています。

残念ですが、法律が弱者を守るとは限りません。そう言う趣旨で制定されても、そうではない形で利用されることが非常に多いことはみなさんご存知の通りです。

存置理由的に言えば弱者を保護すべき社労士がむしろ弱者を抑圧することが多いのは、最近でも実例がありましたし、山口組四代目の竹中正久はその詳細な法律知識を武器としてのしあがりました。

ミスインターナショナルの方が某大手芸能事務所の社長から「彼女の主観的には脅迫」を受けていた件で、首相夫人の安倍昭恵が擁護に回ったにもかかわらず大手報道が一切ない、というのもこの国の現実です。

 

きわめて逆説的な言い方ですが、この国がそもそも暴力にきちんと向き合っていない、というのがこういう状況を招いているそもそもの原因です。

暴力に対抗出来るのは暴力だけです。

人権体制や民主主義は、その制度の中に、人権思想とは矛盾する要素、民主主義から真っ向からさからう制度がなければ存続できません。

例えばドイツの反ナチ法関連諸法ですが、あれは明らかに思想信条の自由や、政治的結社の自由を歪めるものですが、それを内包することによってドイツは人権体制を担保しているわけです。

アメリカでも議会の公聴会でのつるし上げに見られるように公権力による一端、他の諸権利を停止したうえでの介入があるのですが、そうしたある程度の「超法規的措置」によって法秩序が担保されているという側面もあります。

 

日本史の学術用語で権門体制論という言葉があります。

社団国家論とも通じるのですが、要は、国家が法的な存在としてあってその中に人民が内包されているのではなくて、既得権益諸団体が事実上の所属先として機能して国家はその寄せ集めと調整機能を持つに過ぎないという見方です。

日本は未だにこの社団国家的な性格が強いのですし、すべてがつながっています。

大手マスコミからして、テレビ局が新聞社によって系列化され、キー局を中心にして支配体制が確立しているという放送法の趣旨に明らかに反する実態を示しています。

大手マスコミは社団国家の外部にあるのではなく、内部にあるから、同じ内部にある芸能事務所の「脱法行為」を批判することが出来ないのです。

その意味ではSMAP騒動はただの芸能ニュースではありません。

まさしく今の日本の縮図の、国家の統治案件そのものです。

安倍首相がこの騒動に言及して、まるで人ごとのように語ったのは、彼のセンサーが低いというよりは、彼の夫人はともかく、彼もまた社団の人だからでしょう。

 

私はこの異様さを日本独自のものとは見ていません。

程度が甚だしくはある。それは確かです。しかしそれはスカラーの違いでしかありません。

どこの国でもよくあるのはマイノリティによる利益誘導組織体化です。

マイノリティはマイノリティであるがゆえに結束します。それは差別を克服するというプラスの側面ももちろんもっています。

しかし利益誘導をはかったり、本来なされるべき批判が圧殺される、という面もあります。

マジョリティは団結しないので、結果的に各個撃破されてゆくのです。

湾岸戦争後支持率90%を誇ったブッシュ大統領(父親の方です)も、親イスラエルによって歪められた中東政策を是正しようとすればマスコミからネガティヴキャンペーンを張られて再選できませんでした。

カーター大統領も中東和平の阻害要因をなしているのはほとんどはイスラエルが原因であると明言したのは彼が大統領を退いて30年も過ぎてからのことです。

そういうことはどこの国でもある程度はあるのです。

 

メリー喜多川氏はこの件を芸能界の中のコップの中の嵐と見ているのかも知れません。

しかし彼女は事を白日にさらしすぎました。

このことを他の芸能界ボスたちは非常に苦々しく思っているでしょう。

それは彼女や、彼女が属する芸能界という権門/社団を、国民全体の「人民の敵」にするプロセスの一歩になり得ます。そうなるかどうかはともかくとして、無駄にその危険性を彼女が高めたのは確かです。

私たちは液晶画面の向こうの芸能界を見つめる子供たちに、この国がどういう国なのか、果たして誇って提示できるのでしょうか。

 

追記:

某人から、ジャニーズファンの責任についてどう思うのか聞かれました。私はジャニーズファンの責任というものはないと思っています。あるとすればそれは社会人の責任、一個の人間の責任だと思います。

問題を知ろうとしたのか、問題を知った時にちゃんと考えたのか、自分たちの行動がどういう結果を招くか考えたのか、子供たちによりよい社会を残そうと努力したのか。

一人一人が自らに問いかければ良いと思います。

ランキングにおける「天井桟敷の人々」問題

鋼の錬金術師」や「ちはやふる」レベルの作品を読みたいと思って、マンガのランキング本を読んでいるのですが、あれくらいのレベルの作品はそう多くありません。100作品あたって二三あればいいかなというくらいですが、あれくらいの作品にあたるには、まず絶対数が少ないという問題もあります。

こちらは「寄生獣」「ぼくの地球を守って」「北斗の拳」「動物のお医者さん」などのマンガ史上に刻まれた数々の傑作と同程度の水準を要求するわけですから、そもそもが現在進行形のマンガにとっては不利なのはやむを得ないところです。

ランキング本の上位作品を読んでも、好みとかそうでないとかを除外しても、ストーリー構成や作画技法的にも水準に達していないだろうと言う作品が結構あるのですが、そうであれば、「傑作は稀だから傑作なのだ」という当たり前の話で終わるのですが、こうしたランキング本でも拾いきれていない傑作もかなりあります。

たとえば田村由美の「猫mix幻奇譚とらじ」や小川彌生の「キス&ネバークライ」とか。一方で、作品の質云々以前に、ランキングの趣旨から言えば入るべきでない作品もランキングに入ることがあって、「このマンガがすごい!2014」で言えば、「ときめきトゥナイト」の派生作品の「真壁君の事情」や、このマンガがすごい!2015」で入っていた「ベルサイユのばら」(外伝となる続刊が40年ぶりに刊行されたのです)は、かつての読者の「うわー、懐かしい」というノイズが干渉した結果でしょう。

ランキングにはこの種のノイズが入り込むことは避けがたくて、集合知なればこその偏りが生じてしまいがちです。

映画のオールタイムベストのランキングではいつもいつも「天井桟敷の人々」が一位で、名声それ自体によって評価が拡大再生産される、作品の評価ではなく何か別の要因で、東日本大震災のような大きな事件があったり、作品評価とは別に「この作品を好きな私が好き」問題によってファッションアイテムとして評価が捻じ曲げられたりして、ランキングにはランキングの問題があります。

「このマンガがすごい2015」は特にひどくて、あれは作品ガイドブックとしてはもう使えません。

「この作品を好きな私が好き」問題で私が特に過大評価を受けていると思う作家はヤマシタトモコさんです。

東村アキコさんもそういう消費のされ方をしていますが、あの人の場合は作品の質そのものは担保されています。ただ、2015版でランキングに入るならば「東京タラレバ娘」ではなく「メロポンだし!」の方がはるかに程度がいいです。

中村光さんもそうかも知れませんね。

一方で出す作品すべてが傑作と言う評価はされてるけどもっと過大評価されてもいいだろうという作家もいて森本梢子さんは、今、盆と正月が一緒に来ている状態ですね。

森本さんは1985年のデビューですからもう30年選手なのですが、いくえみ綾と並んで、少女マンガ界では異常に第一線に居続けている人です。作風は「純少女マンガ」のいくえみさんとは違って、コメディ路線ですね。

研修医なな子」「ごくせん」等の、一生に一つというくらいの代表作を既に持っている森本さんですが、ここにきて「デカワンコ」「アシガール」「高台家の人々」という傑作群を同時進行させている姿は全盛期の手塚治虫に匹敵します。

浦沢直樹さんくらいですかね、これくらい代表作を更新してゆく作家は他にはそうはいないですね。

浦沢さんも普通の一流作家なら「YAWARA!」ひとつで名刺になるんですよ。でもその後に、「MONSTER」の浦沢さんになって、「20世紀少年」の浦沢さんになった。

30年選手が現役で「高台家の人々」のような作品を描かれては、新人さんはなかなか難しいですね。

余りにも軽いサザン

去年末の紅白のレビューと言うか批評をやろうやろうと思いながら、1月ももう半ばを過ぎてしまいましたが、時事ネタを先に、ということで。

 この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。

このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。


サザン桑田、ライブ演出で謝罪文発表「深く反省すると共に、謹んでお詫び申し上げます」 (スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

 うーん、ちょっと軽いなあと思いますが、私が気になったのは、桑田佳祐がロッカーなのかどうか、そもそもロッカー/ロックとは何なんですかということでした。

サザンオールスターズがバンドとしては戦後史でも一番成功したグループだとは言えるでしょう。最初に好みの問題で言っておけば私は正直言ってサザンにはあまり興味がありません。

悪ふざけが甚だしいか、そうでなければメロー過ぎて、もっとハードロック寄りだった KUWATA BAND の方がサウンドは好みです。

サザンのサウンドはロックじゃないでしょうという気持ちもあるのですが、いわゆる体制批判、大勢に迎合しないという、ライフスタイルとしてのロックの視点で見ても、ニューミュージック/フォーク/Jポップというくくりで見ても、サザンの活動は際立って歌謡曲寄りでしたよね。

シンガーソングライターがテレビに出ないと言う流れは吉田拓郎が新人の時にテレビ局にいけずをされてから、というのが契機らしいんですが、要はマーケティングからテレビを除外する、従来のアンダーグラウンド勢力に関与させない、地方の文化会館などでツアーを行う仕組みを作る、フォーライフレコード系のアーティストの始めた試みこそが、反体制と言う意味ではロック、だったのであって、芸能界はやくざが牛耳っていたので(あるいは現在形でしょうか)、体制と反体制の立ち位置が逆になっているんですね。

その意味では、サザンは従来型の芸能界に近接した形で出て来たバンドであって、芸能界的な売り方をされたコミックバンドでした。

1970年代の末頃は、新人アイドルの不作期が続いていて、オリコンでもニューミュージック&フォーク系が売り上げ上位を占める、いわばここで一端、歌謡界は終わっているんです。80年代アイドルは継承したのではなくて、焼け跡から新たなる伽藍を作り上げたんです。

歌謡界の終焉は、90年代初頭と見られていますが、セールス的には80年代においてさえニューミュージック系が圧倒的で、その時代に、うまくニューミュージック系に衣替えすることに成功したのがサザンなんです。

70年代末は歌謡界の圧倒的劣勢でしたから、従来型の芸能事務所は新たな素材、新たな売り方を模索していて、ニューミュージックがはやってるんならニューミュージックとアイドルを融合させましょうということで、アイドルがフォークを歌ったのが桜田淳子で、ニューミュージック系の歌手でアイドルになったのが竹内まりやであるわけです。

サザンはそういうアイドル的な売られ方をしたグループで、系統で言えばチェッカーズとかJUN SKYWALKER(S)とか、リンドバーグとか、ZARDとか、あの系統の初めの方にいる人たちです。

平凡とか、明星に出ていた人たちですよ。

同時期、同じく芸能界寄り、歌謡曲寄りで売り出されたのがゴダイゴや、ツイストですね。ゴダイゴは音楽性が高くて、ツイストはもっとロック寄りで、そう言う意味ではサザンはベストテンとかに出ても納まりが良かったですね。

サザンが芸能界システムの中で消費しつくされずに、ニューミュージック路線に転換できたのは、いろいろ考え方もありましょうが私が思うに、第一に湘南サウンド(ロックと言うよりはそれ以前のオールディーズですね)をベースにした環境音楽としての消費のされ方を構築したことと、第二にはっぴいえんどの日本語ロック革命を越える形で、子音的に歌詞を発音すると言う発明を、桑田佳祐が行って、テクニカルに革命の最前線に出たことがあろうかと思います。

まあともあれ、守旧的な芸能界システムの中から出てきて、音楽消費のストライクゾーンを担ってきたサザンのリスナーが保守的でないはずがないんです。

最近の世論調査では自民党の支持率は6割くらいいっているらしいんですが、サザンのリスナーはそれより自民党支持率が高くても全然驚かないですね。

つまり桑田佳祐は自分の支持層と、パフォーマンスで乖離を起こしたと言うことなんじゃないかなと思います、今回の騒動は。

まあ人はそれを老いと言うのかも知れません。

 

笑いといじめ、いじりの話

先日、NHK朝の情報番組「あさイチ」で、有働アナに対する年齢いじりなどについて、司会の井ノ原快彦さんが、

「この番組でも思うことはありますよ。縁結びの神様のテーマがあったら、(スタッフは)必ず有働さんに持っていく。有働さんは『ラッキー!』って感じだけど、その全てが有働さんに対していいってわけじゃない。それで笑い取れると思ったら大間違いだぞって思う」

「この人が強いから言っていいとかじゃなくて、相手がどう思うかを常に考えないと。そのつもりがなくても、加害者になっちゃう」

とたしなめたことについて、称賛の声が上がっておりますね。

有働アナは感動して泣いていたらしいですが、実は私も末っ子気質でいじられがちなので、この放送は見てはいませんが、後でネットでの文章を読んで泣きました。

女性は特にきわどい「ジョーク」を投げつけられることも多いのでしょうね。でもこれは男女に関係なくあるのも確かです。私は自分をネタに使われることについては、処世で笑っておりますが、そうやって処世ばかり上手くなってゆくことにも自己嫌悪がつのったりして、自分は決してそういうことをして「場をほぐす」ことはするまいと心がけています。

井ノ原さんは日経エンタテインメントにコラムを連載されるなどをなされていて、そのコラムや著作を拝読したこともあって、非常に知的で芯の通った方だなと前々から思っていて、そう思う方が他にもいらっしゃったから「あさイチ」キャスターに起用されたのでしょう。

ただ、この件で私がまず思い出したのは、確か2008年のことだったと記憶していますが、V6コンサートでの三宅健さんの勇気ある発言のことです。

三宅健さんはグループの中では年少で、他のメンバーにすれば弟みたいでかわいいんでしょうね、いじられ役になることが多くて、それはそれでお約束みたいになっていたんですが、2008年のコンサートで、三宅さんは突如として進行を止めさせて、いじりみたいなものでも自分が傷ついていること、ファンの方からの手紙で、その方もいじられていて傷ついているので三宅さんがいじられているのを見るのがつらいと書かれてあって、芸としては受け流すべきではあるんだけど、黙っていてはいけないと思ったことをメンバーや会場の人たちに語りかけました。

それで一緒になって笑うのも加害者になってしまうことなんだと、言っておられて、メンバーの方も謝罪なさったのですが、「あさイチ」での今度のことも、井ノ原さんには三宅さんによって気づかされたこの件のことが念頭にあったのだと思います。

三宅さんの行動には賛否あるでしょう。お金を払って楽しみに来たのになんで説教されないといけないんだとある意味当然の批判もあります。実際には賛否どころではない、批判の声の方が当時は多かったですね。空気読めないとかなんとか。

あさイチ」の件で井ノ原さんが非常に頭がいい人だなと思うのは、これをジェンダー問題としてある意味すり替えたことです。実際、男女間で、こうした心無い笑いが振られることも確かに多いのですし、ジェンダー問題として提示すれば、視聴者の大半は女性なのですから「あるある」と感じて、井ノ原さん男前!ということになるのですから。

私はそれがいけないとは思いません。自分の主張をより流通しやすい形に加工するのは、大人の戦術としては当たり前のことだからです。

けれどもこういう問題は男性から女性に対してのみあるわけではなくて、男性同士、女性同士、女性から男性に対してもあります。共通点があるとすれば、集団の中で比較的立場が弱い人、孤立している人をターゲットにするということです。

バーニングプロの周防社長をいじる人はいません。

山口組の司忍組長をいじる人はいません。

フォーマット、すなわちお約束にのっとって言えば、三宅さんはいじられて笑いをとるべきだったのでしょう。そうすればみんな、今日のコンサートも楽しかったね、と笑いあいながら帰れます。その和気藹々を壊すのはかなりの決断が必要です。

三宅さんの行為はプロとしてはあるまじき、なのかも知れません。けれどもプロである以前に、人間としての素朴な正義を三宅さんは優先して、バッシングされることを承知でそう言ったのです。だから私は三宅健さんを、勇気ある人だと思いますし、はるかに年少の方ではありますが尊敬しています。そしてその言葉に真っ直ぐに向き合って、きちんと考えて今回こういう答えを出してくれた井ノ原さんも。

とは言え、芸人にとっては無視されるよりもいじられる方がはるかに「おいしい」のも確かです。

特に彼らにとってはそれが収入に直結するのですから。

このいじり笑いについて私が思い浮かべるのは、元モーニング娘。飯田圭織さんです。当初、飯田さんは長身の美少女でしたが、グループ内では目立つ存在ではありませんでした。

彼女が一般に認知されるようになったのは「うたばん」の中で石橋貴明さんが野球選手のデーヴ・ジョンソンに似ているということでジョンソンといじられるようになってからのことです。

飯田さんは当初、「いじられているのを見て、ママも心が痛いと言っていました」と不服を言っていたのですが、人気が出てくるにつれて、「おいしい」という感覚になっていったようです。

不思議なもので、私は石橋貴明さんには別に不快を感じない、好みの問題だろうと言われればそれまでですが、そうやって相手をもりたててやろうという優しさを感じるのです。

一方で吉本系の芸人たちのいじりは、刹那的な笑いのために相手を利用してやろうと言う意図が透けて見えるようで、後味の悪さが残ることが多いですね。

今でもとても理解できないのは、十年くらい前に放送されていた旅番組で、ダウンタウンの浜田さんが若手芸人さんとオーストラリアを旅していて、何かご不満なことがあったのか本気でその芸人さんを蹴っていたことです。その芸人さんも切れそうになるのですが、権力を握っている方が相手ですのでぐっとこらえる、というのが流されていて、あれはどういう意図で放送されていたのか、笑いでもないし、浜田さんにとっても利益もないし、ちょっと分からないですね。

しかし、いじりいじられの芸は、ほとんどは爆笑するような、おもしろいものであるのも確かで、そういうものを面白いと思うと言うセンスが私たちの中にあるということでしょうね。

以前、鬼塚ちひろさんが Twitter か何かで、和田アキ子さんと島田紳助さんを、消えて欲しいとか死んで欲しいだとか呟いていて、問題になっていましたが、それを言うのがいいかどうかはともかくとして、気持ちは私は分かります。あの人たちの権力芸を見ていると、やりきれない感じを抱くこともあります。

ただ、あの人たちが権力になる前は、それがむしろ爽快でもあったわけですね。権力に立ち向かう側であった時には、いじりいじられも面白かったのですが、あの人たちが不幸な点があるとすれば偉くなりすぎたことでしょうか。

権力の側がいじる笑いと言うのは、漠然とほとんどの人が思っているように大阪発なのでしょうか。吉本新喜劇とかはそうではなかったように思います。いつごろからテレビで主流になったのでしょうか。

古い喜劇のフォーマット、社長シリーズとか寅さんとかは、偉い人がいじられて笑われるのが基本でしょうか。ドリフのコントは、あれだけ有害扱いされたのですが、実は権威をたたく構図が基本であって、いじめにはならないようになっていますね。

権力者であるいかりや長介が叩かれからかわれ、そこで笑いが生まれるというのが基本フォーマットです。

つらつらと考えれば、いじり芸の源流はコント55号、そして萩本欽一のような気がします。コント55号のコントは今見ても面白いと言うか、少し狂気があるのですが、坂上二郎さんをいじめていじめて萩本欽一さんが笑いを取るという、アヴァンギャルドな匂いがありますね。

あの、善人顔している萩本欽一さんの中に、暴力性への希求があるというのは、意外かも知れませんけど、今のテレビの中の素人いじりとかは萩本さんに端を発しているわけで、そこから首都圏的な洗練を剥ぎ取って見せられるので、特に関東の人は近親憎悪みたいな感じで大阪の笑いを毛嫌いする人も多いのかも知れません。

テレビの中でいじられている芸人があれがあるおかげで飯を食えているというのも本当のことなんでしょうが、それを批判している人が、芸人はあれでおいしい思いをしているんだから批判するなんてお門違いみたいに言われるのは違うと思うんですよね。別にその芸人のために批判しているわけではないでしょうから。

社会においてジョークとしては処理されてはならないことが処理されていることを問題視しているのでしょうから。

1985年頃の映画で、「ミスター・ソウルマン」という映画があります。

これは黒人向けの奨学金を得るために黒人に化けた白人学生が、黒人たちの日日の現実に直面するお話です。コメディですが扱っている内容自体はシリアスです。

大学のカフェテリアで、黒人を道化にしたジョークを大声で話している白人たちがいるのですが、それを聞いても最初は主人公はただのジョークじゃんとしか捉えられないのですが、いざ、自分が黒人の立場に立たされてみて、最後には、その白人たちをぶちのめして、

「ただのジョークだよ」

と言うのですが、この映画、なぜか白人には受けが悪いんですね。本気でただのジョークだと思っていて、そういう人たちが、反撃されると加害者なのに被害者意識を持ってしまうんです。

お笑いの暴力性の問題はここが厄介なところです。

 

 

 

ありのままに生きる松たか子

木村拓哉主演の「HERO」、視聴率も好調なようですが、やっぱり松たか子がいないのはちょっと残念ですね。スポーツ紙によれば、松たか子は、妊活のため仕事を絞っているということですが、今クールでは田村正和と共演する「おやじの背中」で主演するので、主演作を優先させた、ということでしょうか。

さて、松たか子ですが、吹き替えと劇中歌の歌唱を務めたディズニー映画「アナと雪の女王」の大ヒットで、何度目かのブレイクを迎えていて仕事に関しては絶好調のようです。

現代の女優のキャリアとして松たか子ほど理想的な歩みを進んできた人は他にいません。当人の才能と努力ももちろんあってのことですが、環境に恵まれていたのも確かです。

絶対女優、松たか子の何が優れているのか、その歩みを見てみましょう。

 

松たか子は1977年、当代の松本幸四郎の次女として生まれています。兄に市川染五郎、姉に松本紀保がいます。

松たか子が生まれた歌舞伎の名門・高麗屋は、兄の染五郎が市川姓を名乗っていることからも分かるように、広い意味で成田屋一門になります。高麗屋、つまり松本幸四郎家は市川宗家の筆頭分家格の家柄で、例えるならば徳川幕府における尾張藩のような位置づけになります。

市川宗家が事情があって断絶すれば高麗屋市川宗家に人を送り、團十郎を襲名させる、そういうことが過去に何度か起きています。

現在の高麗屋の家祖は当代の幸四郎にとっては直系の祖父にあたる七代目・松本幸四郎で、この人はもともと梨園の出身ではなく、歌舞伎界の門閥制度を嫌っていました。明治なって歌舞伎を近代化させた功労者である九代目・市川團十郎の筆頭弟子になりました。歌舞伎界で九代目とただ言えばこの九代目・團十郎を指すほど歌舞伎界に貢献があった人です。

この九代目の口利きで、たまたま絶家となっていた松本幸四郎家を継ぐことになり、何の因果か、歌舞伎界の門閥を嫌っていた七代目・幸四郎ですが、自らが大門閥を作り上げることになります。

七代目・幸四郎には息子が三人いたのですが、長男は市川宗家に養子入りし、十一代目・市川團十郎になっています(現在の市川海老蔵の祖父にあたります)。次男が高麗屋を継ぎ、八代目・松本幸四郎(後に隠居名として初代・松本白鸚)となります。三男は音羽屋、六代目・尾上菊五郎に弟子入りし、二代目・尾上松緑を名乗ります(大河ドラマ葵徳川三代」で徳川家光を演じた尾上辰之助、現在の四代目・尾上松緑はこの人の孫にあたります)。

これだけでも市川宗家から音羽屋にまたがる大権閥なのですが、当代の松本幸四郎の母が初代・中村吉右衛門(歌舞伎界中興の祖と言われる人です)の娘であったことから、当代・幸四郎の実弟は、時代劇「鬼平犯科帳」主演で知られる人間国宝、二代目・中村吉右衛門であり、歌舞伎界もうひとつの権閥、播磨屋一門につながっています(萬屋一門や中村屋一門は、初代・吉右衛門の弟筋にあたります)。

ただし高麗屋は、政治的な動きが結果的には得意ではなかったと言え、松本幸四郎がテレビやミュージカルに活躍しているように、新しいことに率先して取り組む家風があり、松竹傘下の現在の歌舞伎体制に必ずしも与しない、他社と契約するなど、市川宗家を含めて、高麗屋は政治的には傍流の道を歩んできました。

戦後、松竹体制下の歌舞伎界を政治的に掌握したのは、女帝と言われた六代目・中村歌右衛門で、彼と十一代目・團十郎の対立は語り草になっています。

六代目・中村歌右衛門成駒屋はもともとは成田屋の弟子筋で、東西に分かれ、一時はその代表名の中村福助は東京と大阪で別人が襲名しているというようなこともありました。大阪の成駒屋の当主格が三代目・中村鴈治郎(女優、中村玉緒の兄。元参議院議長・扇千景の夫)で、東西の成駒屋の対立は、上方歌舞伎の大名跡、坂田藤十郎鴈治郎が名乗ることで決着したようです。名跡・中村福助は結局、東京の成駒屋のものとなりましたから、六代目・中村歌右衛門の政治力の勝利です。

九代目・中村福助(七代目・中村歌右衛門を襲名予定)や三代目・中村橋之助大河ドラマ毛利元就」主演)らは女帝・中村右衛門の甥にあたります。

さて、六代目・中村歌右衛門は芸事にも厳しく、政治的にも統制が厳しい人でした。当代の坂東玉三郎は、女形トップの座を巡って六代目・中村歌右衛門と争う立場にあったので、長らく歌舞伎座では良い役を貰えませんでした。玉三郎が「赦された」のは女帝が晩年になってのことです。

当代・幸四郎は、十二代目・市川團十郎の従兄弟になりますので、人脈的には市川宗家に近いことになります。十一代目・團十郎とは激しい確執のあった女帝・歌右衛門ですから、家同士の関係では、高麗屋と女帝の間にはやや距離がありました。

松たか子がテレビドラマでは初めて主演したNHKドラマ「藏」(宮尾登美子原作、最初は衛星放送で放映されました)を視て、最晩年の女帝・歌右衛門幸四郎松たか子に激賞の電話をかけてきたことが忘れられぬエピソードとして、父娘対談では語られています。

ただ単に、そのドラマでの演技が良かったというだけではなく、その傑出した才能を歌右衛門は見出し、梨園が生んだ最高の女優になると太鼓判を押したのでした。

最晩年の頃の女帝は人生をまとめにかかっていて、長らく敵対関係にあった玉三郎とも和解して、自ら稽古をつけて、後進に梨園の将来を託すなど、若手の育成に力を尽くしていました。

芸事にはとにかく厳しい人で手放しで褒めるということはしなかったようですが、松たか子の才能にだけはとことん惚れたようです。

 

実際、今、見直しても、「藏」での松たか子の演技は、どこをどうとっても完璧です。天才と言う言葉はこの人のためにあるようなものです。

自伝小説、歴史小説を含む伝記小説が多い宮尾登美子ですが、「藏」は1992年から翌年まで毎日新聞に連載されたオリジナル長編小説で、明治大正から昭和にかけて、新潟県に生きた盲目の女性、烈とその家族をめぐる物語です。連載当初から大反響を呼び、連載終了後、舞台化、映画化、そしてテレビドラマ化されています。

映画では烈役に内定していた宮沢りえの降板騒動などがありましたが、宮沢りえが出演していたならばともかく、していない映画版は実際のところ、テレビドラマ版に比較して数段、役者の技量も完成度も落ちます。

テレビドラマ版では、烈を松たか子が、烈の叔母の佐穂を檀ふみが、烈の父の意造を鹿賀丈史が演じました。完璧な配役です。

盲目でありながら誇りだかく気が強い烈を、松たか子は完璧に演じました。父の後妻のせきを下女扱いして辛くあたる場面など、普通は烈が敵役になってしまうところですが、烈の一本筋の通った苛烈さと気高さを感じさせる、そういう難しい演技を松たか子は難なくこなしています。

このドラマでは檀ふみの演技も素晴らしいのですが、伝説となったこのテレビドラマを振り返って、檀ふみもまた松たか子を激賞しています。

私はこのテレビドラマが日本テレビドラマ史上、最高傑作の一つだと思うのですが、デビュー直後の松たか子にこの大きなチャンスが与えられた、彼女はそれに応えて、作品を傑作にまで高めることで返したのですが、そのチャンスを与えられたのはやはり高麗屋の人脈を無視することはできないでしょう。

 

彼女の芸能作品は十六歳で出演した歌舞伎座での時代劇公演ということになっていますが、実際には幼女の頃、歌舞伎の舞台に出ています。歌舞伎は女人厳禁なのですが、幼児の頃は男も女もないということで、梨園に生まれた女の子も駆り出されることはよくあります。

松本幸四郎家は会話はさかんなのですが、話すことは演技のことばかりということで、そういう家に生まれて、なおかつあらかじめ女であるために歌舞伎役者にはなれないというのはどういうことでしょうか。

演技に興味がないならばそれでおしまいなのでしょうが、演技に興味があるならば、でも自分は歌舞伎役者にはなれないのだともんもんとすることになるでしょう。松たか子のように、もし男であれば当代一の歌舞伎役者になっていたであろう人ならばなおさらです。

梨園の娘で女優になりたい者は新派劇に出るというルートがあります。新派の大看板、初代水谷八重子が歌舞伎役者の十四代目・守田勘彌との間に娘である二代目・水谷八重子をもうけたのが縁で、新派劇は松竹の傘下に入り、歌舞伎役者たちの団体である日本俳優協会(現会長は坂田藤十郎)には新派役者も加わっています。波乃久里子大河ドラマ葵徳川三代」では淀殿の妹でおごうの姉、常高院を演じました)は現在の新派を代表する女優ですが、彼女は2012年に亡くなった十八代目・中村勘三郎の姉にあたります。

松たか子も「無名時代」に新派劇に幾つか出演していますから、女優になる気まんまんだったというわけです。

1994年に放送された大河ドラマ花の乱」は視聴率は伸び悩みました(2013年に「平清盛」がワースト記録を更新するまで歴代最低でした)。応仁の乱というややこしい時代を取り扱ったのが「敗因」のひとつですが、玄人筋には評判がいい作品です。細川勝元を演じた野村萬斎、クールな悪役・日野勝光を演じた草刈正雄、坊主をやらせたら当代一とも言われる一休を演じた奥田瑛二らの演技が特に評判を呼びましたが、歌舞伎界からも多数の役者が出演しています。

足利義政役が十二代目・市川團十郎、その息子、当時は市川新之助を名乗っていた当代の海老蔵足利義政の子役時代を演じています。当代の松本幸四郎酒呑童子役で、山名宗全を演じたのが萬屋錦之介(当代の中村獅童の伯父にあたります)でした。

テレビドラマ初出演作となるこの作品で、松たか子は主役である日野富子の少女時代を演じました(本役は三田佳子)。三田佳子は、大河ドラマは二度目の主演になります。

子役扱いとはいえ、テレビドラマの初役が大河の主演なのですから、松たか子は非常に恵まれたスタートを切ったことになります。この抜擢には高麗屋の後押しがあったと見るのが当然でしょう。

花の乱」は日野富子は実は真の日野富子の身代わりとされた女性という設定で、真の日野富子である森侍者(檀ふみが演じました)が水のような透き通った心の持ち主であるとすれば、入れ替わった日野富子は火のような激しい気性の女性として描かれていて、松たか子が演じるのは、しばらく激しい性格の女性の役が続きます。

その次の作品が「藏」であり、文芸大作というか女優として名刺代わりになるような作品に早くに出会えたのは非常に幸運であって、例えば地方の出の、芸能に何もかかわりのない家の娘が女優になったとして早々にそうした役に恵まれるかと言えばなかなか難しいわけで、高麗屋の看板故に松たか子が恵まれていたのも事実です。

ただし彼女はそのチャンスを活かしきりました。単に合格点をとったというだけではなく、他の誰にも彼女のような演技は出来ないと自らの演技力で嫉妬ややっかみの声を封じ切ったのです。

NHKはこの後、好評につき、宮尾登美子作品の自伝的ドラマを次々にテレビドラマ化し、宮尾登美子の激賞もあって、「春燈」、「櫂」と松たか子は主演しています。特に「春燈」は、「藏」と並ぶ傑作です。機会があればぜひご覧になられることをおすすめします。

松たか子民法のドラマでも視聴率が稼げる女優としてのキャリアを築き、「ロングヴァケーション」「ラブジェネレーション」「HERO」では木村拓哉との共演で非NHK層にも食い込みました。

文芸色の強い作品で玄人筋からも絶賛され、なおかつ商業的な作品でも成功するという、理想的なキャリアを築いたのです。

ここまで順調に行った女優はそうはいませんね。

1996年には大ヒットとなった大河ドラマ「秀吉」に淀殿役で出演しました。気は強いけれども、浅井、織田、そして柴田勝家の養女と敗残の系譜に連なる立場は弱い女性という複雑な陰影のある役を演じて好評でした。

歴代の淀殿役者では、宮沢りえと並んで随一だと思います(宮沢りえ淀殿役で出演した作品は脚本があんまりの出来だったので、彼女は損をしていると思いますが)。

その年の紅白歌合戦では紅組司会者に抜擢され、三冠王沢村賞を同時にとったような、前例のないような成功を収めました。

「藏」の烈役から一直線に並んでいるような、激しくも気高い娘役で、松たか子は天下をとったわけですが、娘と言う年齢でもなくなってくるこれからが、新しい挑戦になるのだろうと思います。

彼女にはシンガーとしてのキャリアがあり、そちらの評価もかなり高いものがあります。とはいえ世間的にはやはり、まずは女優、という印象があるのですが、夫がミュージシャンであるように、音楽方面のキャリアは本人としては大きなウェイトを占めているのかもしれません。

その意味では、「アナと雪の女王」のヒットは、シンガーとしての松たか子の実力を世間に知らしめる好機となりました。ここからまた彼女は新しい松たか子を見せてくれるのでしょう。